トマソン
道すがら、車上の僕は高揚していた。2ケツしている後ろのユージ君から「フンハフンハ」という熱気鼻息が首筋に吹き荒れてくる――キミも僕同様に高揚しているのだな。
僕らは明らかに昂ぶっていた。自分たち発の初のヒロイズムに、すっかり酔い痴れていた。「不条理な『ナニカ』に囚われたあの可哀想なトマソンを僕らの手で開放するのだ!」というスローガンは、僕らをすっかり、「正義の使者」のその気にさせていた。
この「解放戦線」――ジジイが飼っている犬を無断で逃がす――はきっと、大人や法律が許しはしないコトなのだとは思うけれども、それでもきっと神様は、僕らの味方に違いない!
「ヤツらの側に神は立っていないのだ」
いつの間にか僕らの正義の矛先は、「ヤツら」という複数名詞になっていた。トマソンの境遇を見てみぬ振りして通り過ぎる、サラリーマンや大学生のお姉さん達も、今やすっかり僕らの「敵」になっていた。自分たちが正義で、それ以外がすべて悪だと決めつける無邪気無謀な短絡さ――そういった文字通りの「こどもらしさ」が僕らの身体に充満していて、指先にまで張り詰めていて、ビンビンと血管を膨張させていて、痛いぐらいだった。
「トマソン……今行くよ」
トマソンよ!オマエはノライヌになるのだ!ノラとして生きるのだ。貧しくも気高い自由を青空の下に満喫するがいい!重たく垂れた瞼ん奥、淀んだ半死の眼球に、通行人の靴の色を映すだけ、空っぽで、曜日のない人生は、今日で終わりだ!僕らがオマエを解き放つ!オマエの野生を殺し続けてきた首輪は、僕らが聖断してやる!
「ぼーくらーがートマソンのー味方さー♪」
「ぼーくらっ、トマソン戦隊トマレンジャ~ああぁんっ♪」
主題歌が3番の歌詞に達しようかという頃、トマソンの家に到着した。臭いからすぐ分かる。「……トマソン」夏の直射日光に熱さられた犬は、猛烈な悪臭を放っていた。
僕らトマソンの首輪を切ろうと、そのすぐ傍まで近づいて、初めて気がついたのだが、こんなにトマソンに接近したのは、実は初めてのことだった。餌こそあげてはいたが、それは少し離れたとこに置かれた茶碗に落とすだけのことで、トマソンに近づいたりとか、頭を撫でたりとは、したことがなかった。臭いから撫でたくなかったし、万が一こんな汚い犬に噛まれでもしたら、明日からのガッコウで永遠のエンガチョになってしまうだろうし、病気とかにもなるだろう。(ちなみに、ガッコウでのトマソンの通り名は「竹内のジジイんとこのゾンビ犬」だった)
「トマソン……分かるね?僕らは味方なんだ」
「………………」
トマソンは、無言だった。というより有史以来人類は、トマソンの鳴き声を聞いたことないに違いない。「ユージ君の言う通り、僕らは味方だ」そうしてこう付け加えた「いっつも餌をあげてるだろう?」ちょっと恩着せがましくて、ヒーローに似つかわしくはないセリフだとは思ったけど、噛まれたくなかったし、この犬はきっと、僕らも含めて人間全般を憎いんでいるのではないか?という心配もあったし。
「今……助けてあげる」
「大丈夫……僕らはホントウに味方なんだ」
ユージ君がポケットから出したニッパーが、ギラリと太陽の光を跳ねて、トマソンの眼球に差し込んだ。一瞬だけ、ぴくりとしたが、直ぐにまた眼を瞑り、「我関せず」といった隠者じみた反応に戻った。トマソンは伏せたまま、じっと身体を弛緩させ、或いは意味のない人生を満喫しているかのようにも見えた。そのことがちょっとだけ、僕の心にひっかかったのだが、おっぱじめた聖戦を、ここで止めることはできない。
「抑えてて」「え?僕が?」「嫌なのかい?」「触りたくないなー」「臭いから?」「うん」「こんなにカワイソウなのに触れないのかい?」「カワイソウでも臭いのは嫌だ。でもキミがそこまで言うんなら、押さえつけておくよ」僕は両方の靴を脱いで、それを手袋のようにはめて、そっとトマソンの背中に押し付けて、ギュムムと力を込めた「さ、今だ!」ユージ君は一瞬顔を顰めて僕を見たが、特に批難の言葉を発しはしなかった、「じゃあいくぞ」
ばちん
「聖断」とはいえし大業は、あまりに呆気無く終わった。「切れた……」「切れたね……」トマソンの首から、ダラリと首輪が外れた。首輪の内側は、外側とは色味が違った。首輪が当たっていたトマソンの首筋は、案の定禿げていた。首輪の外れたトマソンは、もうすでに「トマソン」では無いはずなのに、まだトマソンとして、足元に寝そべったまま――
「走れトマソン!」
「今だ!逃げるんだトマソン」
トマソンは動かない。動けなかったのかもしれない。その日以来僕らは、その家の前を通ることはなかったから、首輪の外れたトマソンがどうなったのか、よくは知らない。
*****
「話は、ここで終わりではないのです」
ここで話を終えることができれば、僕らが「トラウマ」という言葉を知るのは、そっと先延ばしになっていたことでしょう。トマソンを解放した後、僕らは少し怖くなり、飼い主の家の中の様子を、そっと伺うことにしたんです。
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飼い主のジイサンは死んでいました。もろもろの悪臭の主な原因は、トマソンではなくって、ジイサンの死体からでした。僕らはそれぞれの両親と一緒にケーサツに行って、色々なことを聞かれましたし、カウンセリングとかいってお医者さんのところに、何日も通わされました。
「覚えているのは……大きくて黒いゴキブリが見たこと無い群で窓枠にしがみついていたことと、浴衣の中に収まっていた繊維質の塊と、足を挟み込む罠みたいに胸の辺りから飛び出していた白い肋骨…のと……無人トンネルのような眼のところの穴と……それとなぜか笑っている……なんで竹内のジジイ死んでいるのに笑っていたのだ???きっと……きっとアレは……いやアレこそがトマソンだった」