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華鏡(はなかがみ)~鎌倉のおんなたち・時代ロマン小説連作集~

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 そのことは頼経を何より安堵させ、周囲のお付きの者たちも漸く愁眉を開くことができた。今や竹御所が無事に御産を終えることは幕府の何よりの重大事項となった。
 その年も押し詰まった天福二年(一二三四)十二月二十三日、千種はいよいよ出産を迎えようとしていた。既に臨月に入ってからは鶴岡八幡宮はむろん、全国の源氏ゆかりの八幡社には幕命により竹御所安産祈願が大々的に行われていた。
 しかしながら、陣痛が始まってから数日を経ても、お産は少しも進まなかった。陣痛はかなり強いものが絶え間なく押し寄せてくるものの、赤児が途中で降りてこられなくなってしまったらしい。今でいう回旋異常である。
 産所となっている部屋からは、ひっきりなしに千種の悲痛な声が洩れていた。
「ううっ、うっ」
 産婦も産婆も介添えの侍女たちも白一色を纏う産所の中で、千種は懸命に激痛に耐えていた。
 頼経は産殿からは少し離れた部屋で待機していたが、千種の悲鳴はすべて聞こえてくる。まるで何の拷問を受けているかのような悲痛な声を聞く度に、頼経は自分が殴られているかのような気になった。
 彼の傍らには執権北条泰時が控えている。
泰時もやはり事が御台所の出産だけに平静ではいられないようではあるが、流石に取り乱すことはなかった。
「何とかならぬのか? あれほど苦しんでおるのに、何もしてやれぬのか」
 頼経は苛立った声を泰時に投げた。
 泰時は若い主君を宥めるように言った。
「医師も産婆も控えておりますれば、ただ今は叶う限りの尽力は致しておりましょう。御所さま、初めて子の親になるときは誰しもこのような歯痒い想いを致すものです。私も妻が初産のときは、似たようものでした。御台さまも今、頑張っておられます、どうか気をしかとお持ちあそばしますよう」
 泰時の言葉に、頼経は押し黙ったまま不安げに産所の方を見た。
 その同じ頃、千種は次第に薄れてゆく意識の中で、自分の無力さに打ちひしがれていた。
 何故か、嫌な予感がしてならない。赤児はこのまま生まれることはできないのではないか、そんな不吉な想いが拭えなかった。もちろん初めての体験ではあるけれど、経験者の茜から聞いていた出産とはあまりに様子が違いすぎる。
 強い陣痛が間断なく襲う度に激痛がやってきて、その度に千種から生きる気力と体力を少しずつ奪っていった。
 何かがおかしい。これは普通ではない。陣痛の合間に側に控える者たちに切れ切れに訴えても、産婆も医師も畏まるばかりで何も言わなかった。
「御台さま、もう少しですからね。あと少し頑張りましょう」
 茜だけが千種の気持ちを理解し、明るい声音で千種の額に滲む汗を拭いたり、元気づけたりしてくれた。だが、何も言わない産婆や医師が難しい表情をしているのも、空元気を装っている茜が時折、そっと涙を拭っているのも千種はちゃんと知っていた。 
 恐らく私はもう長くはないのだ。お産は失敗に終わるだろう。ここにいる誰もが既にそれを覚悟しているのだと千種は察していた。
 その刹那、ひときわ激痛が見舞い、千種は痛みに耐えかねて泣きながら絶叫した。
「痛い、痛いの、茜」
 手を差しのべると、傍らに侍っていた茜が手をしっかりと握り返してくれた。俄に周囲が慌ただしくなり、産婆の声が聞こえた。
「お生まれになります。御子さまが!」
 医師も慌てて飛んできて、皆が待ちわびたこの瞬間を見守った。緊張を孕んだ静寂が刻一刻と過ぎてゆく。
「お生まれになりました! 御子さまご誕生!」
 興奮した声が赤児の誕生を知らせ、千種の身体からもあの激痛がスウと波が引くように消えた。
「若君さまでございますぞ」
 医師の声に、侍女たちのざわめきが重なる。
「御台さま、若君さまにございますよ」
 茜が歓びに満ちた笑顔で千種の髪を撫でた。千種は疲れ切っていたが、全神経を耳に集中させた。
 赤児の泣き声が聞こえない。
「茜、ややは、ややはいかがした? 泣き声が聞こえぬが」
 弱々しい呼びかけに、産婆に呼ばれていたらしい茜が戻ってきた。
 ―茜は泣いていた。
「赤ちゃんはどうしたの?」
 再度訊ねると、茜は涙をぬぐい、微笑んだ。
「ご立派な若君さまにございます。御台さまは殊の外お疲れのご様子なので、ややさまはただ今、乳母が別室にお連れ致しました。後ほど幾らでも母子の対面は叶いましょうほどに。大任を果たされたのですから、今はゆるりとお休み下さいませ」
「どうしてなのかしら、ややが生まれて痛みは嘘のようになくなったのに、身体が重くてしようがないの。それに、何だか眼がよく見えない」
 茜の声が震えた。
「大丈夫でございますよ。お産も無事に終わりましたし、またすぐにお元気になられますからね」
 向こうで年嵩の侍女の甲高い声が聞こえる。
「早う! 早うに御所さまをお呼びするのじゃ!」
 うとうとと微睡んでいたようだったが、どれほどの間、眠っていたのだろうか。呼び声に重たい眼を開けると、頼経の顔がぼんやりと見えた。
「目覚めたか!」
 頼経の眼が紅い。泣いていたのだろうか。千種は声を限りに振り絞ったけれど、かすれたような囁きにしかならなかった。
「ややは、ややは元気にしておりますか?」
 頼経は幾度も頷いた。
「ああ、子は無事だ、健やかな男の子だぞ。でかした、源氏の嫡流の血を受け継ぐ立派な子だ」
「尼御台さまも歓んで下されましょうか、これで私は立派に務めを果たしたと」
「もちろんだ。そなたは立派に務めを果たした。そなたが産んだ子はいずれ五代将軍となろう」
 千種はかすかに頷いた。何だかとても眠い、身体中がだるくて、眼を開けていられない。
「お願いがございます」
 頼経を見つめると、彼は微笑んだ。
「何だ? 立派な跡継ぎを産んでくれたのだ、なんなりと褒美を使わさねばな」
「最後に、もう一度だけ名を呼んで下さいますか。紫ではなく真の名を聞きとうございます」
「何度申しても判らぬヤツだな。あれほど私の前で、最後とは言わぬと約束したであろうに、そなたは」
 頼経が堪りかねたようにクッと嗚咽を堪えた。
「千種」
 ああ、私は幸せです。あなたに出逢えて、恋をして、短い間だったけれど、夫婦として暮らせた。こんな幸せなことが女としてあるでしょうか。
 千種は万感の想いを込めて愛する男を見つめた。不思議なことに、殆ど霧に包まれていた視界がスウと晴れて、ほんの一瞬だけ頼経の凛々しい顔をしかと見ることができた。千種はこの一瞬、確かに頼経の面をその心に刻み込んだ。
 差しのべた手を頼経がしっかりと握りしめてくれる。無理に身体を起こそうとするのを彼が横から支えて腕に抱いてくれた。
「あなたに初めて真の名を呼んで頂いた時、本当に嬉しかった。紫としてではなく、千種として、あなたの腕の中で逝くことができて、私は幸せです」
 頼経が握りしめた千種の手を自らの頬に押し当てた。
「済まない、本当に済まなかった。子を産むことがよもやここまでそなたを苦しめるとは考えもしなかった」
 頼経の流す温かな滴が千種の手を濡らす。済まないと頼経さまは何度も繰り返した。けれど、謝らなければならないのは私の方だ。