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華鏡(はなかがみ)~鎌倉のおんなたち・時代ロマン小説連作集~

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「残念だ、着替えを持ってきていたのか。俺は着物を着た楓より何も身につけていない楓の方が好きなんだが」
 こんなときにまで冗談の言える時繁は、やはり今までの彼と変わらない。そのことが嬉しくて、楓もまた、つられるように笑った。
 二人は身仕舞いを済ませ、浜辺に並んだ。巨大な太陽が熟れた果実のように紅く染まり、水平線の向こうに沈もうとしている。吐く息が白く細く溶けていく。
「寒くないか?」
 労りのこもった声音に、楓は微笑んで首を振った。
「ずっと夫婦として共に暮らすのなら、真実(まこと)のことを言わなければなるまい。こんなことがなければ、そなたには伝えまいと思っていた秘密だったが」
 いつしか?お前?が?そなた?に変わっている。心なしか良人の顔つきまで少し違っているようで、楓は我が身の思い違いかと眼をまたたかせた。
「楓、俺はそなたにまだ伝えていない秘密がある」
 時繁は眼を細めて夕陽を眺めたまま、ポツリと言った。
「この秘密を知ってもなお、そなたは俺を変わらず愛してくれるだろうか」
 どこか心細さを感じさせる響きには懇願すら込められているような気がして。
 楓は息を呑んで時繁の次の言葉を待った。
 唐突に、彼が身体の向きを変え、真正面から楓を見た。そして、彼の口から紡ぎ出されたのは。
「我は安徳」
 刹那、楓は何かの夢を見ているのだろうと思った。彼女の愛してやまない最愛の良人は今、何と言った? 楓が漸くその言葉の示す意味を認識した時、時繁は淋しげに微笑んでいた。
「主上(しゆじよう)におわしますか?」
 半ば夢であることを祈りながら問えば、時繁はかすかに頷いた。
 楓は蒼白になった。砂地であることも気にせず、その場に跪いた。
「止さないか」
「でも」
 大きな手が差しのべられ、楓はおずおずと時繁を見上げた。時繁はいつものようにその手で楓の小さな手を包み込み、そっと立ち上がらせた。
「あなたさまが帝だなんて」
 俄に遠い人に思え、涙が湧いた。つい今し方、あの小屋で情熱的に幾度も自分を抱いた男が先帝? まるで悪い夢を見ているようで、俄には現のこととも思えない。 
 混乱の最中、引き寄せられ優しく宥めるように背中をトントンと叩いてくれるのも同じ。時繁は楓の顔を覗き込み、まずは額に唇を落とし、次に目尻に溜まった涙を唇で吸い取った。
「主上(おかみ)―」
 もう一度呼ぶと、時繁はまた儚く笑んだ。
「そうだな、昔はそう呼ばれていた時代も確かにあった。だが」
 改めて真正面から見つめて続けた。
「今はただの一人の男だ。愛しいと思う女を守りたいと願うもののふだ」
 いつしか短い冬の陽は落ち、周囲は夜の気配が立ちこめていた。時繁は手頃な流木に楓を座らせた。その間、集めてきた枯れ枝で火を熾し、自分も楓の隣に座った。
「長い話になるが、聞いてくれるか?」
 楓は深く、しっかりと頷いた。
「朕(わたし)はあの海で―あの海で一度死んで生まれ変わったのだ」
 時繁の瞳は、またはるかな向こう、暗い海の彼方を見つめていた。彼の魂(こころ)はまたしても十四年前の壇ノ浦に還っているのだろう。
 時繁は訥々と語った。生母女院との涙の別離や恐るべき入れ替わりのこと。
 楓はただ言葉もなく聞き入った。
「二位の尼御前、これは朕の祖母だが、その祖母に抱かれて海に沈む前、母上に最期のお別れをしたんだ。母上はずっと涙を流しておいでだった。朕を抱いて、朕がこのような宿命しかたどれなかったことを涙ながらに詫びておられた」
「確か女院さまはまだ生きておわされるのでは?」
 思わず言うと、彼は頷いた。
「知っている。洛外の大原の庵におられると聞いた」
「女院さまは主上がご存命でいらせられることをご存じなのですか?」
「いや」
 時繁は首を振った。
「秘密を知る者は一人でも少ない方が良い。朕が生きていることを源氏の者が知れば、ただでは済むまい。また、源氏でなくとも、先帝である朕を己が野心のために再び担ぎ出そうとする輩が出てくる。朕はもう利用されるのはこりごりだ。母上にひとめお逢いして無事をお伝えしたいのは山々だが、恐らく互いに母子の名乗りをすることは生涯叶うまい」
 その切なげな横顔に、楓は時繁の辿った数奇な宿命を思った。
―どんなに辛い人生をこの男は生きてきたのか。
 わずか一歳の幼さで至高の位につき、その小さな肩に背負い切れないほどの重い荷物をたった一人で背負って生きてきたのだ。
 楓は手を伸ばして時繁を抱きしめた。それは男女のというよりは、母が息子を抱きしめるのにも似ていた。
「二位の尼御前に抱かれて入水をした話は、いつかそなたに話したとおりだ」
「私はあのときのお話で、あなたが平家にゆかりの方だと思ったのです。ですが、まさか先帝でいらせられたとは露ほども思いませんでした」
 時繁がフと笑う。
「朕は死んだことになっているからな」
「陸に流れ着き、漁師に助けられたことは聞きました。でも、入れ替わりとは、どういうことでしょう?」
「朕が流れ着いたのは長門国の浜辺だった。その近くの親切で善良な漁師が朕を見つけて助けてくれたのだ。朕を育ててくれた養い親はその時、咄嗟に考えた」
 このまま帝を源氏方に差し出せば、一生かかっても遣い尽くせないほどの褒賞を貰える。その頃、源義経は行方知れずになった安徳帝を血眼になって探していたからだ。
 だが、源氏方に身柄を引き渡せば、幼い帝はまたその本人のあずかり知らぬところで運命に翻弄される。漁師は考えた末、帝をこのまま死んだことにした。丁度、近くの漁村で溺死した子どもがいた。年格好も似ていたことから、漁師はその子の亡骸をひそかに盗みだし、帝と入れ替えたのだ。
 その機密を知るのは近くのさる寺の老僧と漁師夫婦のみだった。漁師は老僧に相談し、その入れ替えた子を亡き帝として葬ることにした。証人をこしらえるために、棺に入れて白布で覆った子どもの亡骸を何人かの村人に見せた。むろん、その前に帝が漂着したときに纏っていた立派な水干を亡骸に着せていた。
「顔は長時間水に浸かっていたから、二目と見られないほど醜く腫れていると言い訳して、布で覆っていた。村人に見せたのは、下半身の部分だけだったそうだ。生命からがら助かった俺が漸く普通に動けるようになったのは、すべてが終わってからだったんだ」
 数人の村人が立ち会い、間違いなく先帝の亡骸だと確認した後、亡骸はすぐに荼毘にふされた。
「それから、朕は漁師夫婦の倅として育った。元々、養父は一徹な人で通っていて村からも離れた場所で夫婦だけで、ひっそりと暮らしていた。だから、突如として遠縁の子どもが引き取られてきたと聞いても、誰も訝しむ者はいなかったし、わざわざ朕の顔を見に来る者もいなかった」
 そうやって、身代わりを帝に仕立てて埋葬した後、寺の老僧は義経に事の次第を書き送った。すぐに義経の近臣だという武士がやってきたものの、既に亡骸がない状態では、どうにもならない。念のため、先帝の亡骸を見たという村人すべてが呼び集めれ、一人一人尋問を受けたが、皆一様に、自分たちが見たのはお労しくも幼くして海に散った帝の亡骸だと口を揃えた。
 源氏の武士はその言葉を鵜呑みにし、そのまま帰京していった。