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華鏡(はなかがみ)~鎌倉のおんなたち・時代ロマン小説連作集~

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―お父さま。ごめんさない。
 楓は唇をきつく噛みしめ、もう一度、心の中で父に詫びた。  
 この懐かしい?我が家?に帰ってきたのは七ヶ月ぶりだった。去年の六月、河越の屋敷に戻るときには、またここに来るとは考えもしなかった。
 楓には予感があった。時繁は必ずやここにいるという確かな想いに導かれるようにして、ここに来たのだ。楓は少し軋む音を立てる扉を開けた。この戸が立てる音ですら以前は煩いと思ったのに、今は懐かしい。
 果たして、彼女の想い人はそこにいた。ただし、以前と大きく違うところは室内がガランとして持ち物らしいものは何一つないことだ。元々、男の一人暮らしらしく何もない家だったけれど、以前は申し訳程度にあった柳行李さえなくなっている。それはこの家(や)の主人が既にここを引き払うつもりでいることを何より物語っていた。
 扉の音に時繁が振り向いた。楓の出現に愕いた風でもなく、さりとて、嬉しそうというわけでもない。その感情の窺えぬ瞳は既に時繁が楓から関心を失ってしまったとも思えた。
 早くも折れそうになる心を奮い立たせ、楓は時繁を見つめた。
「どこかに行かれるのですか?」
 時繁は無言だった。傍らには旅の荷物らしい小さな葛籠(つづら)があった。その脇には例の布に幾重にもくるまれた宝剣がある。平家代々の家宝だという代物だ。
 彼は今、まさにその宝剣の包みを手にしようとしているところだった。
「あなたが私を復讐のために利用していないという言葉を、私は今も信じています。でも、もうお側には置いて下さらないほど、あなたは私をお嫌いなのですね」
 時繁は宝剣をまた傍に置き、楓を見た。ぬばたまの幾億もの夜を閉じ込めたような深い瞳。知り合ってもう何ヶ月、夫婦としてさえ暮らしたのに、この男に見つめられるとまだこんなにも胸が妖しく騒ぎ、身体が熱くなる。
「もう一度、お訊きします。いずこに行かれるのですか?」
 果てのない沈黙の後、ようやっと時繁が呟いた。
「ここではないどこかへ」
 前向きな応えとは到底言い難いが、とりあえず時繁が口を開いたことに勇気を得て、楓は話を進めた。
「そんなに私はお邪魔ですか?」
 今度はすぐに返答があった。
「俺がお前を嫌うはずはないだろう。確か、いつかも似たようなことを俺は言ったはずだ」
 楓はつい声高になった。
「ならば、どうして河越の屋敷を出られたのです?」
 時繁がフと自嘲的な笑みを洩らす。そんな表情をすると、時折垣間見える孤独の翳がいっそう濃くなる。楓は胸が引き絞られるように痛んだ。
「その応えであれば、楓がいちばん知っているだろう。俺はお前だけでなく、義父上も裏切ったんだぞ。父上はお前と河越の家を俺を信頼して託すと仰せになった。その信頼を俺はむざと裏切るような行為に走ったのだ。幾ら厚顔な俺でも、このまま何食わぬ顔で河越の屋敷にいるわけにはゆかないさ」
「―」
 時繁の言い分は道理だ。二人ともに口には出さないが、頼朝の死に時繁が深く関わっていることは周知の事実である。恒正と頼朝は義兄弟ともいえるほど深い絆で結ばれていた。恒正は主君の死を心から悼み、傷心の極みにある。頼朝を殺した時繁がそんな恒正と何もなかったような顔で暮らすことはできないのは当然だし、また、時繁はそういう男だ。
「納得できたなら、お前はもう帰れ」
 冷淡な声音に、涙が溢れそうになり、声では歯を食いしばった。
「私がお側にいてはいけませんか?」
「その必要はない。俺たちはもう終わったんだ。お前は河越の屋敷に戻り、新しい良人を持って義父上の期待に応えて家を盛り立てていけば良い」
 あまりにも無情な言葉に、とうとう楓の眼から涙が零れた。
「あなた以外の人には触れられるのもいや。そんな私にあなたは他の男のものになれと言う。ならば、いっそのこと死にます。いつか、あなたはおっしゃいましたね。海に入るのは苦しみながら死ぬことだと。でも、あなたを永遠に失うほどならば、私は迷わず死を選びます。どんなに苦しくても、あなたのいない世界で生きるよりはマシだから」
「楓」
 時繁が愕いたように眼を見開いた。
「短い間でしたが、時繁さまのお側で楓は幸せでした」
 楓は深々と頭を垂れると、軋む戸を押して外に出た。別に脅しでも戯れ言でもない。本気だった。時繁を失い、愛してもいないどこぞの男を二度目の良人に迎えるよりは、この海に身を沈めた方がまだ救われる。
 楓は砂浜に草履を揃えて脱ぎ、躊躇うことなく海に向かって進んだ。打ち寄せる波が素足を洗う。そのまま真っすぐ歩いてゆこうとした時、背後から逞しい腕に閉じ込められた。
「馬鹿者ッ。むざむざ生命を落とすなとあれほど俺が言い聞かせたであろうが!」
 耳許で大喝され、楓はピクリと身を震わせた。
「お前を失えば、俺はまた大切な者を失う。楓、お前は知らないかもしれないが、楓は俺にとっては唯一無二の存在なんだぞ。俺だって、この世からお前がいなくなったら、生きている意味はない」
 骨が砕けんばかりに強い力で抱きしめられ、楓はかすかに喘いだ。その声にいざなわれるように、時繁は楓を抱き上げ、小屋に連れ戻った。
 今日の時繁は荒々しかった。まるで楓の小袖を脱がせるというよりは引き裂くといった方がふさわしく剥ぎ取ってゆく。やがて全裸にされた楓はすぐに彼の逞しい裸身に組み敷かれた。
「俺が黙って河越の屋敷を出たのは、そなたを巻き添えにしたくはなかったからだ。鎌倉にいれば、楓は有力御家人の娘として何不自由のない生活が送れる。だが、俺と共に来れば、一生苦労することになるのは判っている」
 楓は無心な瞳で良人を見上げた。
「女の幸せは惚れた男の傍にしかありません。私があなたなしでも生きられるような女であれば、七ヶ月前、河越に戻るときに一人でさっさと帰ったでしょう」
「―そうだな」
 二人はしばし、見つめ合った。まなざしが絡まり合った場所から熱が生じ、やがて小さ焔が生まれる。時繁はいつものように丹念に楓の身体を唇で辿り、あちこちに小さな焔を点す。そして、その小さな無数の焔はいつか大きな焔となり、楓のすべてを灼き尽くすのだ。
「もう放してはやらないぞ」
「放さないで」
 時繁の熱い唇が、舌が乳房を這う。楓はいまだかつて感じたことのない鋭い快感に悶え、声を上げた。
    
 どれほど、そうしていたのか。幾度も互いに求め合い貪り合い、飢えた獣のように交わり合った。楓は時繁に抱かれ最奥まで深々と刺し貫かれ、数え切れないほどの絶頂に達した。河越の屋敷をひそかに出たのはまだ朝方だったというのに、時繁に抱かれている中にいつしか小屋に差し込む光は優しい蜜柑色に染まっていた。
「少し海を見たい」
 時繁の言葉に、二人はそろそろと起き上がり、周囲に散らばった着物を身につけた。だが、纏ってきた小袖は彼に殆ど引き裂かれてしまったため、到底着られたものではない。
 わずかに持ち出した手荷物の中に着替えの小袖を数枚入れていたので、それを身につけた。どれだけ身体を重ねても、時繁に裸体を見られることには抵抗がある。後ろ向きで手早く着物を着る楓を見、時繁が薄く笑った。