私の読む 「宇津保物語」 楼上 下 ー2-
衛士は、寝殿の仲忠に、「このような事を申す男が来ましたが」と報告すると、仲忠は聞いて
「何か事情があるのでは無かろうか」
と、寝殿に居る者全員を対に移させて、自分が出て行って衛士に、
「ここへお連れしなさい」
と、男を召し入れる。
男は喜んで、背丈は四尺に満たないが髪は長くて膝の後ろまで有るのをきっちりと整えて、清らかな装束で四人の童を従えて仲忠の前に現れた。扇を笏の替わりにして由緒のある家の出身と見えた。年は四十ばかりである。
寝殿の北廂に内侍督と仲忠は来訪者を迎えた。男は仲忠を見るや、恐ろしいほど気高くて清らかに思い、寝殿の階段を上らない。仲忠は大層懐かしい様子で、「こちらへ」と言うので男は寝殿に昇った。
仲忠は、
「どこから来たのですか。誰に会おうと来られたのですか」
と尋ねると男は、
「まず仰せを承ってから詳しい話を致しましょう。
こう申し上げます私は、亡くなられた治部卿大殿が御在世中嵯峨野という名前でお仕えした、あの嵯峨野の一族で御座います」
と、男が申すのを聞いて内侍督は几帳の隙間から覗いてみると、かすかにその昔覚えがある十歳ばかりの時に仕えていた者である。嵯峨野というのは年老いて、可哀相に仲忠が産まれてくるのをただ一人待ち望んでいた者で、本当に内侍督は娘心に有り難いと思った嵯峨野の一族の者であった。
内侍督は久しい間嵯峨野がまだ若くて生きていてくれたらと思わない時がないのである。
内侍督は、
「嵯峨野には女の子供があると聞いていたが、そうなのか」
男
「三人いましたが、大姉は亡くなりました。今は二人が存命です。近江の国の掾で姓はよしむね名は時持と申します。もう一人は、右馬の允で、二人の姉と妹はそれぞれを夫に持ちましたが、二人の婿とも一昨年に亡くなりました。二人は男の子を二人づつ生みました。連れていますこの四人の童です」
童四人を紹介して男は、
「私は、嵯峨院のお厩に働いていました、ながと、と言う者の弟で時宗と申します。摂津の国に居住致しております。嵯峨野の二女と三女が、そういうわけで子供を連れて私と共に今は住んでおります。
子供の童四人は、母達がこざっぱりして大人らしく育てているから、程々に貴族の宮仕えに差し上げよう、と申しますので、去年までは親の喪に服していましたが、国分寺の稚児が丁度欠員が出来たからと言うことでした。この四人を法師が欲しがっていますのを母親は僧にはしたくないと申しています。
以上のようなことを法師が国守に訴えたりしたので何かと面倒になり、僧の方も官庁を味方に付けて私共を責めて罰して家を潰されました。
童達の母が申すには、
『自然に助けてくださる方がお出でになろう』
この母は若い時に宮仕えを致しておりました。身分が賤しいにもかかわらず、殿がお亡くなりになるまでお勤めして、私達身内の顔をはっきり見ないで主人のために一生を捧げました。
私達だけがお二方を知らずにこのように落ちぶれてしまいましたのを、大変に賢くて、世に繁栄成されているお方が、我らの知り人におられること、一方では悲しみながら望みを懐にして、参上いたしました」
と、男は申し上げる。
あの嵯峨野という女は賤しい身でありながら仕えているご主人が病で倒れられたのを見捨てることが出来ず、子供の顔をろくろく見ることもなく、ご主人がお亡くなりになるまでお仕えいたしました。
遺されたここの京極殿の若い主人(内侍督の娘の頃)が、たった一人で幼い子を抱えて困っていらっしゃるのを、見捨てかねて、気分が今に直ると思っているうちに、京で亡くなって仕舞いました」
内侍督は男の言ったことなどを、今日ここで聞いているうちに昔のことが色々と思い出されて胸が一杯になる。悲しみを思い出すと涙がこぼれ出てきた。
仲忠も、昔のことを聞いていたのであのことだなと理解できることなので、旧知の者に会えて嬉しく思う。
内侍督は暫く考えて、
「話が尽きない昔のことをここで話されて、大変悲しく思いました。嵯峨野のことを事細かにはっきりと覚えていますので、どう堪えようとしても涙が落ちてきます。詳しいことは他人には話さないでください。
ただ、嵯峨野の代理でこうして訪ねてこられた人を同じように考えましょう。私達まで堅苦しく考えないでください。仲忠は嵯峨野を含めて私達一族の大将です。だから、貴方が訴え悲しむことは、。本当にひどい目に遭っている。
仲忠は直ぐに摂津の守の処へ書状を送るでしょう。早く尋ねて来ないでよく今まで我慢していたものだね。嵯峨野の娘達が何処に居るともはっきり聞いておかなかったから、気にしながらも尋ね出せなかった。
本当に来てくれて嬉しかったが・・・・・・・、。よく来てくれました」
男は若い下仕のように畏まって座っている。時宗は田舎臭くなく、なみなみでないさっぱりした顔つきで
、髪と脛が目立つ。、仲忠は、
「結構なことだ、この童達が仕えになる君達がおられます」
仲忠は、童部(子供の召使い)に四人の童を呼びよせる用に命ずると、
「ここにいます」
「ここへ連れてきなさい」
と、童達を仲忠が見ると、おかしな姿で、白い鮫肌の顔である。
『好ましい童達だな、何か遊芸が出来るのか」
男は
「二人は笛が吹けるようです。後の二人は舞を舞うそうです。
この様な遊芸ごとが必要になると、色々と面倒を見てきましたのです」
仲忠は
「いい話だな、四人一緒に置いてそれぞれ好きなことを習わせよう。舞もさせよう」
男は
「あの近江の掾でありました時持の妻は、朱雀院の御代に采女で勤めていました。采女は昇進して位を頂く時に不幸にも後輩に不正でもって先を越されて、位を賜りませんでした」
仲忠は、
「易いことであったのに。御代が変わっても願い出れば位は貰えるが、今となってはどうすることも出来ない。時を見て引き上げるようにしてあげよう。
京に住むのであれば家を世話しよう。嵯峨野の一族は京に上った折の住み家にするがいい。この京極近くに家を造ってあげよう」
「限りなく有り難いことです」
「苦しうない、先ず食事をしなさい」
仲忠
「摂津國司に、お前達の家を前よりよく造り与えるように申しつける。家の調度も必要な数だけ揃えて渡すように命じよう。
また、摂津には院から拝領した私の領が在るから、その管理を時宗に任せよう」
と、告げた。内侍督は被物として、。掻練の綾の単衣襲、織物の袿、袴一具を与えた。それに絹十疋を下さり、
「これは、田舎にいる人々に与えなさい。みんな必ず京に来なさい。その上で思うようにしてあげますから」
と、言う。時宗は何回も何回も喜びの礼を言う。
絵解
この画は、京極の寝殿、時宗と童四人が御前に座す。仲忠が何かと動いて時宗達にものを申している。
この画は、犬宮が楼から降りてくるところ。
仲忠からの被物は、紅の袿一襲、織物の指貫「これは旅に必要なもの」と言って渡す。絹廿疋「これは國にいる人に与えるように」。
「何か事情があるのでは無かろうか」
と、寝殿に居る者全員を対に移させて、自分が出て行って衛士に、
「ここへお連れしなさい」
と、男を召し入れる。
男は喜んで、背丈は四尺に満たないが髪は長くて膝の後ろまで有るのをきっちりと整えて、清らかな装束で四人の童を従えて仲忠の前に現れた。扇を笏の替わりにして由緒のある家の出身と見えた。年は四十ばかりである。
寝殿の北廂に内侍督と仲忠は来訪者を迎えた。男は仲忠を見るや、恐ろしいほど気高くて清らかに思い、寝殿の階段を上らない。仲忠は大層懐かしい様子で、「こちらへ」と言うので男は寝殿に昇った。
仲忠は、
「どこから来たのですか。誰に会おうと来られたのですか」
と尋ねると男は、
「まず仰せを承ってから詳しい話を致しましょう。
こう申し上げます私は、亡くなられた治部卿大殿が御在世中嵯峨野という名前でお仕えした、あの嵯峨野の一族で御座います」
と、男が申すのを聞いて内侍督は几帳の隙間から覗いてみると、かすかにその昔覚えがある十歳ばかりの時に仕えていた者である。嵯峨野というのは年老いて、可哀相に仲忠が産まれてくるのをただ一人待ち望んでいた者で、本当に内侍督は娘心に有り難いと思った嵯峨野の一族の者であった。
内侍督は久しい間嵯峨野がまだ若くて生きていてくれたらと思わない時がないのである。
内侍督は、
「嵯峨野には女の子供があると聞いていたが、そうなのか」
男
「三人いましたが、大姉は亡くなりました。今は二人が存命です。近江の国の掾で姓はよしむね名は時持と申します。もう一人は、右馬の允で、二人の姉と妹はそれぞれを夫に持ちましたが、二人の婿とも一昨年に亡くなりました。二人は男の子を二人づつ生みました。連れていますこの四人の童です」
童四人を紹介して男は、
「私は、嵯峨院のお厩に働いていました、ながと、と言う者の弟で時宗と申します。摂津の国に居住致しております。嵯峨野の二女と三女が、そういうわけで子供を連れて私と共に今は住んでおります。
子供の童四人は、母達がこざっぱりして大人らしく育てているから、程々に貴族の宮仕えに差し上げよう、と申しますので、去年までは親の喪に服していましたが、国分寺の稚児が丁度欠員が出来たからと言うことでした。この四人を法師が欲しがっていますのを母親は僧にはしたくないと申しています。
以上のようなことを法師が国守に訴えたりしたので何かと面倒になり、僧の方も官庁を味方に付けて私共を責めて罰して家を潰されました。
童達の母が申すには、
『自然に助けてくださる方がお出でになろう』
この母は若い時に宮仕えを致しておりました。身分が賤しいにもかかわらず、殿がお亡くなりになるまでお勤めして、私達身内の顔をはっきり見ないで主人のために一生を捧げました。
私達だけがお二方を知らずにこのように落ちぶれてしまいましたのを、大変に賢くて、世に繁栄成されているお方が、我らの知り人におられること、一方では悲しみながら望みを懐にして、参上いたしました」
と、男は申し上げる。
あの嵯峨野という女は賤しい身でありながら仕えているご主人が病で倒れられたのを見捨てることが出来ず、子供の顔をろくろく見ることもなく、ご主人がお亡くなりになるまでお仕えいたしました。
遺されたここの京極殿の若い主人(内侍督の娘の頃)が、たった一人で幼い子を抱えて困っていらっしゃるのを、見捨てかねて、気分が今に直ると思っているうちに、京で亡くなって仕舞いました」
内侍督は男の言ったことなどを、今日ここで聞いているうちに昔のことが色々と思い出されて胸が一杯になる。悲しみを思い出すと涙がこぼれ出てきた。
仲忠も、昔のことを聞いていたのであのことだなと理解できることなので、旧知の者に会えて嬉しく思う。
内侍督は暫く考えて、
「話が尽きない昔のことをここで話されて、大変悲しく思いました。嵯峨野のことを事細かにはっきりと覚えていますので、どう堪えようとしても涙が落ちてきます。詳しいことは他人には話さないでください。
ただ、嵯峨野の代理でこうして訪ねてこられた人を同じように考えましょう。私達まで堅苦しく考えないでください。仲忠は嵯峨野を含めて私達一族の大将です。だから、貴方が訴え悲しむことは、。本当にひどい目に遭っている。
仲忠は直ぐに摂津の守の処へ書状を送るでしょう。早く尋ねて来ないでよく今まで我慢していたものだね。嵯峨野の娘達が何処に居るともはっきり聞いておかなかったから、気にしながらも尋ね出せなかった。
本当に来てくれて嬉しかったが・・・・・・・、。よく来てくれました」
男は若い下仕のように畏まって座っている。時宗は田舎臭くなく、なみなみでないさっぱりした顔つきで
、髪と脛が目立つ。、仲忠は、
「結構なことだ、この童達が仕えになる君達がおられます」
仲忠は、童部(子供の召使い)に四人の童を呼びよせる用に命ずると、
「ここにいます」
「ここへ連れてきなさい」
と、童達を仲忠が見ると、おかしな姿で、白い鮫肌の顔である。
『好ましい童達だな、何か遊芸が出来るのか」
男は
「二人は笛が吹けるようです。後の二人は舞を舞うそうです。
この様な遊芸ごとが必要になると、色々と面倒を見てきましたのです」
仲忠は
「いい話だな、四人一緒に置いてそれぞれ好きなことを習わせよう。舞もさせよう」
男は
「あの近江の掾でありました時持の妻は、朱雀院の御代に采女で勤めていました。采女は昇進して位を頂く時に不幸にも後輩に不正でもって先を越されて、位を賜りませんでした」
仲忠は、
「易いことであったのに。御代が変わっても願い出れば位は貰えるが、今となってはどうすることも出来ない。時を見て引き上げるようにしてあげよう。
京に住むのであれば家を世話しよう。嵯峨野の一族は京に上った折の住み家にするがいい。この京極近くに家を造ってあげよう」
「限りなく有り難いことです」
「苦しうない、先ず食事をしなさい」
仲忠
「摂津國司に、お前達の家を前よりよく造り与えるように申しつける。家の調度も必要な数だけ揃えて渡すように命じよう。
また、摂津には院から拝領した私の領が在るから、その管理を時宗に任せよう」
と、告げた。内侍督は被物として、。掻練の綾の単衣襲、織物の袿、袴一具を与えた。それに絹十疋を下さり、
「これは、田舎にいる人々に与えなさい。みんな必ず京に来なさい。その上で思うようにしてあげますから」
と、言う。時宗は何回も何回も喜びの礼を言う。
絵解
この画は、京極の寝殿、時宗と童四人が御前に座す。仲忠が何かと動いて時宗達にものを申している。
この画は、犬宮が楼から降りてくるところ。
仲忠からの被物は、紅の袿一襲、織物の指貫「これは旅に必要なもの」と言って渡す。絹廿疋「これは國にいる人に与えるように」。
作品名:私の読む 「宇津保物語」 楼上 下 ー2- 作家名:陽高慈雨