私の読む「宇津保物語」 國 譲 上 ー2-
「この頃は気に掛かるようになるほど文を戴けませんですね。どうされましたのですか、文を戴けなくなるとは。人々は貴方のことを
『可哀想に、未だに藤壺のことを忘れられないようだ』
と、私に貴方のことを言います。聞いて私は、思いも欠けず今日まで久しく変わらない御心を嬉しく思っていますうちに、お父君を亡くされて悲しんでおられる貴方の思いを如何かとお察し致しております。
おかしな事に、出仕のお勤めを怠っておいでになるらしい事だけでも、大層いとおしく思っておりますのに、
木隠れてすむと聞きつる山川に
など藤波の袖にたつらん
(木に隠れた処を流れて澄む山川のように、隠遁しておいでになるというのに、どうして清いお心に波が立つのでしょう)
世間が頼りなくあっけないと感じていても、種々様々な思いが湧いてきます」
と、したためて藤の花を付けて、女房の兵衛の君の兄が童殿上していたが今は春宮蔵人になっている、その者を召して、
「この文を太政大臣季明の屋敷に持っていって、大勢の人たちがお出でになっておられるでしょうから、その中から源宰相実忠を捜して、正確に差し上げてください」
と、しっかり念を押して文を渡される。蔵人は喜んで太政大臣殿に到着する。この蔵人を太政大臣の家の者はよく知っていた。
実忠は葬儀の後も引き続いて殿に滞在されていたので、兵衛女房の仲介で使者となった兄の蔵人が太政大臣殿に到着して、蔵人は実忠の近くに侍す侍人に、
「『この書状を確かに実忠様にお渡ししてください』と言う藤壺様の仰せですから」
と、言って渡す。侍は、
「実忠様は、大変に淋しく嘆かれておられます。この文を渡せば少しはお慰めになりますでしょう」
と、侍は何も申さずに文を実忠に渡すと、
「何処からの文ぞ」
「存じません、お渡し下さいとのことで御座いました」
実忠は開いてみる。見覚えのある藤壺の筆跡である。少し読んだだけで嬉し涙で目が曇って涙が止まらない。傍にいた民部卿実正が、
「藤壺の文ですか、見せてください」
「まだ全部は読んでいない、目が曇って読めないのです。世に親が居ない程の不幸はないが、その親がいらっしゃらなくても、父上の死去で藤壺から文を貰うとは嬉しいことです。
これまでずっと死ぬほどの思いで居ても見向きもされなかった藤壺が」
大層泣いているのを、昭陽殿が見ていて、
「どう言っても、密夫実忠が、藤壺という女から文を貰った、というだけのことではないか。
こんな不貞な藤壺でも、二人と無い女だと騒がれる」
と言うのを実正が聞いて、
「おかしな事を言われるな」
と、爪を弾いて不満の意を表す。
実忠は返事を書く、
「本当に本当に珍しいお文を頂いて、限りなく喜んでいます。このように嬉しいお便りを頂きまして、年来の暗い気持ちが晴れたようで御座います。
涙川袂にふちのなかりせば
沈むも知らであらむとやせし
(袂を濡らす涙の川で溺れ死んだことでしょう。もし袂に縁がなければ、今日の文が戴けなかった)
身を捨ててしまって嘆き悲しんでいる。このような時にお文を戴くとは、我が身に父の死という大事が有ったればこそです。と思うのですが、それでも心に悲しみは残っています。
滅多に里にお下がりではないのですから、間もなく忌が明けましたら、参上いたしまして今日の喜びをお話いたします。
いつものようなつれない態度はなさいませんように。今はただ、狭い道を一つだけ頼りにしています」
と、濃い鈍色の紙にしたためて、可愛らしい八重山吹に付けた。使いに被物を何にしようかと考えて、藤壺入内の時に絶望の余り兵衛の君に贈ったが返品
された、黄金入りの箱、その箱一つを鈍色の紙に包んで、その包み紙に、
此の箱は君に譲らん我が身には
今日訪ふ人に増すものぞなき
(此の箱は使いの貴方にあげますしょう私にとっては今日尋ねてくれた人よりも有り難い宝物は無いのだから)
「永き心」とか。
実忠は文と被物を侍している家来に、使者に渡すようにと言って、
「お使いはなんと言われる」
「童殿上の時は、これはた、と名乗っていましたが、今は春宮の蔵人として勤めております」
「これはた、は昔私と親しかった者だと藤壺は考えた上で、蔵人を使者にされたのだ。此方へ通しなさい」
と、近くに呼ぶが簀の子もない蔀だけの処であるから、蔀越しに話をする。実忠は、
「本当に珍しい人がお使いとして来てくれたが、御覧の通り喪に服して人とも会わないようにしているから直接にお会いできない。妹君の兵衛女房からそっと藤壺にお伝え下さい、『この消息には気が転倒して言いたいこと総て申し上げてはいません。近いうちに必ず参上いたします。
私のことを心配された父も亡くなり、此の世にはいらっしゃいませんので、山深くに戻ろうと思っていましたところ、申し上げておきたい人のこともありますので、是非お伺いいたします。以前のようにつれなくなさいませんように』
と、お伝えください」
と、涙を流しながら伝言を頼んだ。そうして、
「此の箱の中の黄金は、被物は常の時であれば私の衣を脱いで差し上げるものであるが、喪中の衣故出来ません。これは私が修行をして得た仏舎利であるとお考え下さい。この先いつまで山籠もりをと」
蔵人
「どういたしましょう、恥を恥としない無分別な私が頂いて、黄金を無くして無駄にしてしまうでしょう。恐ろしいことです」
「私の死後の形見としてください」
と、蔵人に渡して実忠は奥に入る。お齋(とき)を据えられたが、食しないで、ただ泣いておられた。
民部卿実正
「昔どんな契りをされたのか、藤壺は貴方のためにこれほどの心遣いをされるのだろう。評判だけでしか知らない人をこのようにまで想うことはないが、その当時御簾越しにでも対面なさったのか」
実忠
「何か縁があるのでしょう。正頼の殿に住んでいた頃に、兵衛女房をせめて藤壺の声だけでも聞かせて欲しい、ときつく頼んだときに、藤壺の住んでいた中の御殿の東の簾と格子の間に兵衛の手引きで入ったことがあった。格子の穴から覗くと、母屋の御簾を上げて灯火を前に置いて、今は仲忠北方である一宮と藤壺が碁を戦っておられる。さらに琴を弾いたりなどをされる。それを見たら胸が開けて楽になるかと思えば、逆にますます想いが募るばかりになり・・・・・・」
「さてどんなでした、どちらが美しく見えました」
「そうだな、藤壺ばかりに目がいって、一宮をしっかりとは見ていない。此の世に比べようがない美しい人と見た」
「本当に世間で評判であった藤壺はやはりそうでしたか。私の北方(正頼三君)なんかは、屑みたいなものですね。外の女に比べたらまだ美しい方であるのに、どうして世の人は見てくれないのでしょうかね。それでもよく押し入らなかったですね。その様な良い機会に藤壺に会わないと言うことはないでしょうに。今のように嘆いてばかりしておられるならば」
『可哀想に、未だに藤壺のことを忘れられないようだ』
と、私に貴方のことを言います。聞いて私は、思いも欠けず今日まで久しく変わらない御心を嬉しく思っていますうちに、お父君を亡くされて悲しんでおられる貴方の思いを如何かとお察し致しております。
おかしな事に、出仕のお勤めを怠っておいでになるらしい事だけでも、大層いとおしく思っておりますのに、
木隠れてすむと聞きつる山川に
など藤波の袖にたつらん
(木に隠れた処を流れて澄む山川のように、隠遁しておいでになるというのに、どうして清いお心に波が立つのでしょう)
世間が頼りなくあっけないと感じていても、種々様々な思いが湧いてきます」
と、したためて藤の花を付けて、女房の兵衛の君の兄が童殿上していたが今は春宮蔵人になっている、その者を召して、
「この文を太政大臣季明の屋敷に持っていって、大勢の人たちがお出でになっておられるでしょうから、その中から源宰相実忠を捜して、正確に差し上げてください」
と、しっかり念を押して文を渡される。蔵人は喜んで太政大臣殿に到着する。この蔵人を太政大臣の家の者はよく知っていた。
実忠は葬儀の後も引き続いて殿に滞在されていたので、兵衛女房の仲介で使者となった兄の蔵人が太政大臣殿に到着して、蔵人は実忠の近くに侍す侍人に、
「『この書状を確かに実忠様にお渡ししてください』と言う藤壺様の仰せですから」
と、言って渡す。侍は、
「実忠様は、大変に淋しく嘆かれておられます。この文を渡せば少しはお慰めになりますでしょう」
と、侍は何も申さずに文を実忠に渡すと、
「何処からの文ぞ」
「存じません、お渡し下さいとのことで御座いました」
実忠は開いてみる。見覚えのある藤壺の筆跡である。少し読んだだけで嬉し涙で目が曇って涙が止まらない。傍にいた民部卿実正が、
「藤壺の文ですか、見せてください」
「まだ全部は読んでいない、目が曇って読めないのです。世に親が居ない程の不幸はないが、その親がいらっしゃらなくても、父上の死去で藤壺から文を貰うとは嬉しいことです。
これまでずっと死ぬほどの思いで居ても見向きもされなかった藤壺が」
大層泣いているのを、昭陽殿が見ていて、
「どう言っても、密夫実忠が、藤壺という女から文を貰った、というだけのことではないか。
こんな不貞な藤壺でも、二人と無い女だと騒がれる」
と言うのを実正が聞いて、
「おかしな事を言われるな」
と、爪を弾いて不満の意を表す。
実忠は返事を書く、
「本当に本当に珍しいお文を頂いて、限りなく喜んでいます。このように嬉しいお便りを頂きまして、年来の暗い気持ちが晴れたようで御座います。
涙川袂にふちのなかりせば
沈むも知らであらむとやせし
(袂を濡らす涙の川で溺れ死んだことでしょう。もし袂に縁がなければ、今日の文が戴けなかった)
身を捨ててしまって嘆き悲しんでいる。このような時にお文を戴くとは、我が身に父の死という大事が有ったればこそです。と思うのですが、それでも心に悲しみは残っています。
滅多に里にお下がりではないのですから、間もなく忌が明けましたら、参上いたしまして今日の喜びをお話いたします。
いつものようなつれない態度はなさいませんように。今はただ、狭い道を一つだけ頼りにしています」
と、濃い鈍色の紙にしたためて、可愛らしい八重山吹に付けた。使いに被物を何にしようかと考えて、藤壺入内の時に絶望の余り兵衛の君に贈ったが返品
された、黄金入りの箱、その箱一つを鈍色の紙に包んで、その包み紙に、
此の箱は君に譲らん我が身には
今日訪ふ人に増すものぞなき
(此の箱は使いの貴方にあげますしょう私にとっては今日尋ねてくれた人よりも有り難い宝物は無いのだから)
「永き心」とか。
実忠は文と被物を侍している家来に、使者に渡すようにと言って、
「お使いはなんと言われる」
「童殿上の時は、これはた、と名乗っていましたが、今は春宮の蔵人として勤めております」
「これはた、は昔私と親しかった者だと藤壺は考えた上で、蔵人を使者にされたのだ。此方へ通しなさい」
と、近くに呼ぶが簀の子もない蔀だけの処であるから、蔀越しに話をする。実忠は、
「本当に珍しい人がお使いとして来てくれたが、御覧の通り喪に服して人とも会わないようにしているから直接にお会いできない。妹君の兵衛女房からそっと藤壺にお伝え下さい、『この消息には気が転倒して言いたいこと総て申し上げてはいません。近いうちに必ず参上いたします。
私のことを心配された父も亡くなり、此の世にはいらっしゃいませんので、山深くに戻ろうと思っていましたところ、申し上げておきたい人のこともありますので、是非お伺いいたします。以前のようにつれなくなさいませんように』
と、お伝えください」
と、涙を流しながら伝言を頼んだ。そうして、
「此の箱の中の黄金は、被物は常の時であれば私の衣を脱いで差し上げるものであるが、喪中の衣故出来ません。これは私が修行をして得た仏舎利であるとお考え下さい。この先いつまで山籠もりをと」
蔵人
「どういたしましょう、恥を恥としない無分別な私が頂いて、黄金を無くして無駄にしてしまうでしょう。恐ろしいことです」
「私の死後の形見としてください」
と、蔵人に渡して実忠は奥に入る。お齋(とき)を据えられたが、食しないで、ただ泣いておられた。
民部卿実正
「昔どんな契りをされたのか、藤壺は貴方のためにこれほどの心遣いをされるのだろう。評判だけでしか知らない人をこのようにまで想うことはないが、その当時御簾越しにでも対面なさったのか」
実忠
「何か縁があるのでしょう。正頼の殿に住んでいた頃に、兵衛女房をせめて藤壺の声だけでも聞かせて欲しい、ときつく頼んだときに、藤壺の住んでいた中の御殿の東の簾と格子の間に兵衛の手引きで入ったことがあった。格子の穴から覗くと、母屋の御簾を上げて灯火を前に置いて、今は仲忠北方である一宮と藤壺が碁を戦っておられる。さらに琴を弾いたりなどをされる。それを見たら胸が開けて楽になるかと思えば、逆にますます想いが募るばかりになり・・・・・・」
「さてどんなでした、どちらが美しく見えました」
「そうだな、藤壺ばかりに目がいって、一宮をしっかりとは見ていない。此の世に比べようがない美しい人と見た」
「本当に世間で評判であった藤壺はやはりそうでしたか。私の北方(正頼三君)なんかは、屑みたいなものですね。外の女に比べたらまだ美しい方であるのに、どうして世の人は見てくれないのでしょうかね。それでもよく押し入らなかったですね。その様な良い機会に藤壺に会わないと言うことはないでしょうに。今のように嘆いてばかりしておられるならば」
作品名:私の読む「宇津保物語」 國 譲 上 ー2- 作家名:陽高慈雨