私の読む 「宇津保物語」 田鶴の群鳥
「昇進は私も嬉しくお祝い申し上げます。そちらへは気分が悪いのでお伺いできません」
と、返事があった。仲忠は、
「いつもこういう風にばかり仰るおつもりなのでしょうね」
と、太政大臣の就任祝賀の宴に(大饗)の席に左右大臣とともに出席した。
翌日。正頼の殿で、左大臣(忠雅)の就任祝賀会が正頼の殿で行われた。正頼も出席なさる。その催しは堂々として立派であった。
仲忠は左衛門督検非違使の別当兼務となり、涼は右衛門督兼務となる。
藤中納言仲忠は、かってあて宮が住んでいた正頼殿の中の大殿に一宮と暮らすことになる。帝や正頼の特別な配慮で豊かに何の心配もなく日々を過ごしている。
涼は他の場所に大殿を金銀瑠璃綾錦を駆使して磨き上げて殿を建造して、七宝と言われる、金・銀・硨磲(しゃこ) 七宝の一シャコガイの貝殻・瑠璃・瑪瑙・琥珀・珊瑚の七つを山ほどに積み上げて、上中下の使用人を花のように飾り立てて、冨の中に暮らす。
こうして一宮も今宮も、その容貌はあて宮に劣ることなく、仲忠も涼も妻に対して深い愛情を示し、非常に仲睦まじい間柄ではあるものの、なお、仲忠や涼は帝につながる一族として大切に扱われていた。
諸司・諸国の主典(さかん)以上の官を任ずる儀式の司召しで二人とも身分が高くなったが、あて宮に顧みられなくなったこと、生きている限りあて宮に誠を尽くそうと決心していたのが、と思うと今の心はどうしたことだと嘆くのである。
司召は、
公卿が集まって約三日間清涼殿の天皇の前で行い、摂政の時はその直廬(ちょくろ)で行うのを例とする。左大臣が一ノ上として執筆となり、一々任官の人を大間書(おおまがき)に注記する。県召(あがためし)には主に国司などの地方官を任じ、司召(つかさめし)には主に京官を任ずる。ほかに臨時除目(小除目)・女官除目などがあった。 (広辞苑)
二人の中でも、仲忠はあて宮が入内する前から他の人よりも親しく声をかけられたり、消息文をもらったりしていたので、そのことを思いながら、今や全く文通も途絶えてしまって魂が抜けたように嘆く。新婚の一宮ともなにかのついでに、あて宮の噂話をしている。そのような時にあて宮から一の宮へ消息文が送られてきた。
あて宮から一の宮へ
「結婚やそれに伴う事で騒々しく忙しいことであろうと思いまして、収まりがついて静かになってからと思っていましたところ、こんなに遅くなってしまいました。
筑波嶺の
峰までかゝるしら雲を
君しもよ所に見るは何なる
(筑波山の嶺ににまでかかる白雲を貴女が知らずにいらっしゃるとはどうしたことでしょう。とかく噂のある仲忠に、ご注意なさい)
私も被害者の一人で、いつでしたか夕暮れにひどい目にあったことを思い出しましたよ」
と一の宮に書き、送った。一の宮は読んでから笑われる。
仲忠が
「どう言ってこられたのでしょう、見たい物ですね」
「何でもありませんよ」
と、一の宮は仲忠に見せない。
仲忠は両手を擦り合わせて拝むようにして宮に頼んであて宮の消息文を受け取り、中を読むとあて宮の手紙が趣き深くて、仲忠は昔にまして思い込んでしまって物を言わない。
一の宮はおかしな仲忠と思いながら返事を書く。
「この頃はずっとご無沙汰で誠に気がかりになるまで失礼してしまいました。
さて仰せの筑波嶺は
筑波嶺の
このもかのもに陰はあれど
君が御陰にます陰はなし
(筑波山のこちら側にもあちら側にも木陰はいくらでもありますが、君のお陰にまさるものはありません)
(古今集1095)
仲忠は貴女を
「ます陰はなし」
と思っているようで御座います」
嶺高み夢にもかくは白露を
いまも谷なるものとこそ見れ
(嶺が高いので、夢にもそうとは存じませんでした。白雲は今も谷にあるものと思っています)
中納言仲忠は
「あのお方に恋心を抱いてから、心が落ち着くことがなかったとき、すばらしい秋の夕暮れだったか、ほのかにあて宮をお見かけしたので、心が動揺して落ち着かない。
せめて近くまでと、中の大殿に参った夕暮れに、月をご覧になるといって、あて宮が琴をお弾きになるのを聞いていましたら、もう死んでもよいという気持ちになって、この世に生きていこうとも思わず、常識のある人には出来ないようなどんなことでもしようという気になりました。
それが今日まで生きながらえて、それほどの間違いも犯さず済んだのは・・・・・」
一の宮
「生真面目でいらっしゃいますね」
仲忠
「昔でさえ人を惑わしたあて宮の琴はどうおなりになったでしょう」
一の宮
「音の調子が狂ったままで琴を爪もはめないで手探りで弾いていましたが、人が聞いていたと言うことを知ってから、あて宮は私のそばで弾くことをやめてしまわれたので、それ以来忘れてしまわれたのでは」
と、言われたので仲忠は笑いながら、
「私の心を惑わすほどにお弾きになったのに、誰に恥じて止めてしまわれたのでしょうか。
あて宮の琴は、嵯峨院の子の日菊の宴で弾かれたときは、その前に春日社の前で弾かれたときよりも遙かに上達された。今はどれほどの腕になっておられるか。
あて宮の琴の演奏は世にまれでいらっしゃる。東宮もそのように思われて、あて宮以外に琴の演奏者はいないと思われて、あて宮が東宮のお側に侍されることを待ち望んでいらっしゃる。
そういうわけで、五の宮のところや、一条腹の梨壷のところへ東宮が行かれるときは昼から夕方まで、朝早くから昼まで、いらっしゃるばかりなので、あて宮お一人だけが東宮妃であるという風ですよ。
そういうわけだからこそ、多くの身分の高い立派な男たちが無用なものになってしまったのです」
と、仲忠は北方一ノ宮に話される。
こうしていると、内裏より一宮に、蔵人で式部丞を兼ねた者が使者になって大きな唐櫃にいろいろと衣装を入れ、帝の文を付けて送ってこられた
「このたびの唐織は、よくもないものです。仲忠の朝服にはどうですか」
とあって、宮はお使いに女の装束一具を被物として与えた。お礼の文は、
「このような立派な朝服を頂くような者はいませんのに、恐れ多いことでございます」
と書いて使者に渡しているところに右大臣正頼が渡って来られた。
右大臣正頼が渡ってきて仲忠に
「中納言、いかがですか御旅住居(自邸以外の外泊)は、どんなにか不便だと思われるでしょう。尤も『ゐずまひがら』という諺がありますから、お心掛け次第でしょうが』」
仲忠
「そう仰っていただきましては恐縮でございます」
絵解
絵は、仲忠夫婦の住む中の大殿。
琴がある。几帳をたててある。
この絵は、大臣と仲忠、涼がおられる。三人の中納言、宰相、左大弁と七人が並んで大宮に挨拶に行く。
大宮からの被物を戴く。
あこ君から一の宮が、あて宮の文を受け取る。その文を仲忠が手をこすりながら一宮から受け取って読む。
女房三十人ほどが裳と唐衣。髫髪
(うない)八人が汗衫(かざみ)、表の袴を着用。食事を差し上げる。
料理は女房の宰相の君。
作品名:私の読む 「宇津保物語」 田鶴の群鳥 作家名:陽高慈雨