私の読む 「宇津保物語」 梅の花笠
と、兼雅は北方に話す。(兼雅の一条邸には女二の宮の他数人の北方が住んでいる)
仲忠の母の北方は、
「でも、それも甲斐がないことですよ」
ながめつつ舟浮くばかりありしかど
つきせず落しわが涙かな
(思いに耽って泣いてばかりいて、舟が浮くほど涙が溜まりましたが、それでもなお尽きずに、後から後から流れるのでした)
と詠う、兼雅は、
「そうであったな。清らかな人、しかし、貴女を忘れてはいなかったその志を自分ながら頼みとしてきたのです」
年を経て絶えずながれし涙にも
舟のうかばぬ時はなかりき
(久しい間絶え間なく流れた涙で、ふねがうかばないことはなかったほどです)
と詠って、昔離ればなれで一人不安な思いで過ごしていた頃、これもあれも、季節毎に、事有る度に思いこめたことなんかをお互いに言いながら御簾の外に出てすわり、兼雅は琵琶、箏の琴は北方、女房達が倭琴を並べて調子を合わせて、面白い曲を演奏する。
台を多く並べて珍しい物を盛り据えて、清浄な衣を多く掛け渡し、出居の簀の子に女房廿人ばかり、紫の濃い色の袿一襲、摺り裳を着用していた。可愛い童四人、汗袗によく似た襖子(あおし)、袷の袴、濃い袙をなどを着て出入りして、咲いている草花の中で遊んで、悲しい話をしてその結末を語りなどをしていた。
夕暮れになる頃、内裏に兼雅が久しく参内しないのを兼雅の兄忠雅大臣に帝が、
「右大将の兼雅が久しく参内しないが」
と問われた。忠雅は、
「桂川の近くに風景のよい屋敷を持っていまして、そこで花を見ようと言って、最近そちらに居住をしております」
「妻の誰かを連れて行っているのだな」
「仲忠が母親を連れて行っております」
「仲忠の母親を兼雅は寵愛しているのだな」
「只今のところ、彼女一人を妻としております。身分のよい本妻達をみな忘れてしまったようです」
コメント
あお【襖】
衣服の一種(図)。古く中国では襖子と書き,日本ではこれを〈あお〉〈あおし〉とよんでいた(《和名抄》)。中国では,これを古代北方民族の胡服(こふく)として用いなかったが,6世紀後半の北斉から一般に用いられるようになり,袷(あわせ)の上衣として,袴(こ)とともに着用した。活動に便利であったため,乗馬や旅行,あるいは日常の衣服として広く用いられていた。日本にも,あるいは古く北方民族から伝えられていたかもしれないが,律令の衣服の制度ではこれを公式に採用して,武官の警固や従軍の場合の正装(礼服(らいふく),朝服)として規定した。 (ネットから)
帝、
「それは興味を引くことだな。まだ兼雅が女一人で満足しているとは聞いたことがない。三の宮に思いを寄せたときに兼雅は周りに妻妾十七八人侍らすと聞いたが、三の宮を忘れるほどの気持ちになったか。仲忠の母には昔から誰も飽きずに思いを寄せた有名な女だからな。私も会いたかったがとうとう参内しないで終わってしまった」
帝はさらに
「今からでも彼女を困らせてやろう」と詠う。
月にだによらずなりにし白雲の
谷に年経(ふ)と聞くはまことか
(月にさえ終に近寄らなかった白雲が、谷では久しいと聞くけれど、本当か)
人も寄せ付けないでたいそう手強い様子だったが、どうして兼雅の妻になったのだ。
と、書いて右近少将仲頼に
「この文を、あの桂の家に持って行って、北の方に渡しなさい」
仲頼は急いで出て、一つの車に行正・祐純中将・仲純の侍従が乗り込んで桂に向かった。
道中で三人が楽を奏でるのを兼雅が聞いて、
「侍従仲忠が退出してきたようだ。湯漬けの用意をさせなさい」
と、言っているところに、趣のある花の枝に帝の文を付けて仲頼が近づくと、上げた御簾を降ろして兼雅は外に出た。女房達はみんな奥へ入った。
こうして使者の仲頼は簀の子に居て、供の者は花の蔭に座らせた。仲頼は文を北方に渡すと兼雅はその文を見たいのであるが、奥へは入れない。北方は帝の文を見て笑う。文を受け取ると使者の仲頼達に饗応がある。紫檀の折敷、沈の台に据えて八膳、食卓は儀式張ったものでなく、干物や生ものをのせて、美人の女房美しい衣装で給仕に来た。
酒盛りとなって使者の仲頼は帰りを急がせるが、
「どうして急ぎなさる。花を見てからお帰りなさいませ」杯を差し出し、
いそぐとも花にまかせん匂ふ色
みつゝや人のかへるともみん
(お急ぎになっても無駄でしょう。私は花に任せるつもりですが、この美しく咲いているのを見ながら帰ることがお出来になりますか)
仲頼、「さあそれは困ったことに」
花の香をたづねて来つるかひもなく
匂にあかでわれやかへらん
(花の香りを尋ねてきた甲斐もなく、その美しさに飽きもしないのに私は帰ろうとしています)
祐純
かくながら散らずと思はば桜花
かげにて千代をめぐらざらめや
(この先散らないとしたら、花の咲く木陰で千年も眺めて暮らすであろう)
仲純
この宿ににほへる花のいかなれば
落つる雫も玉とみゆらん
(この桂の宿に美しく咲いている花は、どういうわけで、花から落ちる雫も玉と見えるのでしょう)
行正
松風のひゞき残れる宿にしも
長閑に咲ける花の色かな
(松風の響きも尚さやかなこの桂の宿に、桜の花が咲き乱れて、なんと長閑な景色ではないか)
仲忠は当然詠むはずであったが、奥にいて詠まなかった。
そうするうちに仲頼は「これは遅くなった、帝に申し訳がない」と、急いで帰ろうとすると、北の方が帝への返歌、
しら露のやどるもうれし谷といへど
空にし月のかげもみゆれば
(白露の宿るということは誠に忝のうございます。閉じこめられた谷ではありますが、こうして空には月は見えて光は射すのでございますから)
の返歌と、綾、掻練の袿一襲、袴と共に女の装束一具を使者の仲頼に与えた。仲頼は返歌を持って急いで内裏に向かった。
仲頼以外の行正達は兼雅に引き留められて、管弦を奏して一夜を過ごした。朝早く帰るときに、仲頼と同じように女の装束を渡された、
(梅の花笠終わり)
作品名:私の読む 「宇津保物語」 梅の花笠 作家名:陽高慈雨