私の読む「宇津保物語」第三巻 藤原の君
藤原の君
昔、藤原の君と言われた源氏初代の方がおられた。
童の頃から有名で容貌、性格、背丈が人よりも優れ、熱心に学問をして、音楽の道に入られたときに、世間の人が、
「なんと賢い方だ。帝となって国を治められたら、天下が豊かになる君である」
世の人が全て言うときに、多くの上達部、皇族方が婿に迎えようと思っていると、そのときの太政大臣の一人娘、童が元服(冠)の式を挙げた夜に、婿として迎え、大事にしておられたところに、朱雀帝の妹、女一宮(嵯峨帝第一内親王)と言われ、皇后のお産みになった方がおられた。
父の嵯峨帝が皇后に言う、
「この源氏は、今よりもこの先の将来に世の中に有用な者となる。私達の娘を藤原君と娶そう」
母お后は、
「この源氏は、今現在よりも将来出世する者であります。私達の娘を藤原君と結婚させましょう」
と言われて、一宮と藤原君は夫婦となった。
結婚式を挙げて三日目の夜(男が女の元に通って三日目)、帝は杯を持って、
「ここに、三日通って来たといって、あの太政大臣の娘が忘れられず、同様に通うのは、よろしい」
と言われて、
岩のうへにならびて生ふる松よりぞ
雲井におよぶ枝も有りなん
(岩の上に並んで生い育つ二本の松から雲井高くのびる枝もあるであろう女一宮と正頼とを松に譬えた)
源氏正頼(藤原君の元服後の名)、杯を賜るというので
松の根を植うるけふより岩の上を
ひろき林と人に知ららせむ
(松(女一宮)を植えた今日から岩の上を広い林として人に知らせるよう努力いたしましょう)
右大臣橘千蔭
岩のうへの苔のむしろにすむ靏(つる)は
代をさへながく思ふべきかな
(もし藤原君が帝となり国を治め給うならば、天下は富み栄えるであろう、そういうお方である)
左大臣源忠恒
卵(かひ)のうちに昨日は見えし靏の子の
今日はうへにもならびゐる哉
(昨日まで殻の中の卵のような幼い御方とお見上げした女一宮(鶴の子)が、今日は何と立派に成長せられて、藤原君の北方としておならびになられた事よ)
中納言行忠
葦田鶴(あしたづ)のうつる千年のやどりには
今や沙子(いさご)の岩となるらん
(千年も生きる鶴(女一宮)のうつりすむ宿(正頼家)は、砂が岩になるほど久しく繁栄することでしょう)
のような祝い歌を詠われた。
そうして、女一宮の母である后の宮は、三条大宮のちかくに四丁に及ぶ大きな宮殿を持っていた。
后の宮私人ではなくて公のこととして、修理職に命じ、左大辨が監督して、この大きな宮殿四丁を四つに分割して、その分割した、一つの町に、檜皮葺きの大きな殿舎、屋根付きの廊下(細殿)、渡殿、車庫、板葺きの小屋などを沢山築造されて、その中の一つの町に、太政大臣の所有として、正頼の妻となった娘が住むようにした。
改築された三条に正頼夫妻は住む。四つに分割された一つに妻左太政大臣の娘が住み、また一つには北方となった女一宮が住んだ。
年月経て、子供が多くできた。
コメント
巻名
「むかし藤原の君ときこゆる一世の源氏おはしましけり」
に始まる藤原の君を巻名としている。この命名に従えば
「むかし式部大輔左大辨かけて清原の王ありけり」に始まる第一巻は「清原の王」
と名づくべきであったと思われる。
然るに作者が「俊蔭」としたのは,全巻を通じての主題「琴」の由来は清原王にではなく、その子俊蔭に求むべきであるからだったのであろう。
尤もこの巻もうつほ物語を通じての副主題、求婚譚の女主人公あて宮を中心としているから、「あて宮」とすべきでもあろうが、あて宮の巻名は後出するし,次々とあて宮のこどが多いので、ここではむしろあて宮の背景としての「藤原の君」がふさわしいであろう。
巻序
底本は第四巻であるが,俊蔭巻の並二で第三巻となる。次の年立で明らかなように,第一巻俊蔭よりも二十七年、第二巻忠こそよりも十五年後のことであり,巻末も第一巻より一年先にのびているが,第二巻は十九年前に終わっている。
この巻の頂位は九大本系と一致するが、抜本以外の流布本系は皆第二巻となっている。
年立
嵯峨帝ー朱雀帝十三年(或は十四年)に到る正頼四十九歳の秋(或は五十歳の夏)まで四十九年間。正頼十五歳の時、太政大臣女,並に女一官と結婚、十七歳の時、大君仁寿般誕生、三十七歳の時、九君あて宮誕生となる。
あて宮十二歳にて裳着(正頼四十八歳)、十三歳の秋或は十四歳の夏)まで。
この春の巻「三のみこなかのおとゞにて云々(本書二一八頁ノ一四行│二二一頁ノ六行)の三十八行が錯簡でないならば、藤原の君の年代は一年延びる筈である。
(日本古典文学大系 藤原の君扉の一部)
お解りのように、「としかげ」「忠こそ」「藤原の君」
三巻の書かれている内容は時代が並んでいる。研究される方は興味があるであろうが、私みたいに、ただ読む者には、何と煩雑なこと、である。
「藤原の君」を読み終えるとすっきりとすのだろうか、平安の読者は、このような煩雑で回りくどい物語の進行を、楽しく読んだのであろうか。
宇津保物語を参考にして「源氏物語」は書かれているので、作者の紫式部は、この点を考慮して書いたのだろうか。話のテンポの違いがはっきりする。
太政大臣の娘には男の子供が四人。娘が五人。宮の方は十五歳で出産されてから、男子八にん、女子九人。
まず
宮の大君は、・太郎・次郎・三郎・四郎、次々とお産みになった。
大イ殿(太政大臣)のお方は、五郎・六郎とお産した。
宮の方は、七郎・八郎。
大イ殿の方に、九郎、
宮に十郎、
大イ殿(太政大臣)に中の君・三の君・四の君、
宮、五六七八九十並んでお産みになっった。
また、大イ殿に、十一、十二の君、
宮、十三、十四の君、続いて同時にお二人、男の子をお産みになる、
かわるがわる、このように出産なさるが、大イ殿と宮の方の間は嫉妬をするようなこともなく、見るも麗しい清らかな関係であった。
こうして、女一宮や大イ殿のお産みになった子供達は、男子は官位を賜ってそれぞれ宮廷に仕え、元服の式を挙げ、女は裳着や髪上げの式を行って、結婚したり宮廷に仕えたりする。
子供達一人も欠けることがなく成長するほどに、父親正頼は大臣の下、大納言正三位に成られた。
沢山の子供達が美しく心清く成長したので、世間は、
「このご一家は凡人でなく神仏の類で、天女が下ってお産みになったのだ」
と評判になった。
そうして、宮のお産みになった
太郎、左大辨 忠純(ただすみ)年三十。
次郎、兵衛の佐 師純(もろずみ)年廿九。
この二人は共に宰相である。
三郎 右近の中将蔵人の頭 祐純(すけずみ)年廿八
四郎 左衛門佐 連純(つれずみ) 年廿七
これらは宮の子供。大イ殿の子は、
昔、藤原の君と言われた源氏初代の方がおられた。
童の頃から有名で容貌、性格、背丈が人よりも優れ、熱心に学問をして、音楽の道に入られたときに、世間の人が、
「なんと賢い方だ。帝となって国を治められたら、天下が豊かになる君である」
世の人が全て言うときに、多くの上達部、皇族方が婿に迎えようと思っていると、そのときの太政大臣の一人娘、童が元服(冠)の式を挙げた夜に、婿として迎え、大事にしておられたところに、朱雀帝の妹、女一宮(嵯峨帝第一内親王)と言われ、皇后のお産みになった方がおられた。
父の嵯峨帝が皇后に言う、
「この源氏は、今よりもこの先の将来に世の中に有用な者となる。私達の娘を藤原君と娶そう」
母お后は、
「この源氏は、今現在よりも将来出世する者であります。私達の娘を藤原君と結婚させましょう」
と言われて、一宮と藤原君は夫婦となった。
結婚式を挙げて三日目の夜(男が女の元に通って三日目)、帝は杯を持って、
「ここに、三日通って来たといって、あの太政大臣の娘が忘れられず、同様に通うのは、よろしい」
と言われて、
岩のうへにならびて生ふる松よりぞ
雲井におよぶ枝も有りなん
(岩の上に並んで生い育つ二本の松から雲井高くのびる枝もあるであろう女一宮と正頼とを松に譬えた)
源氏正頼(藤原君の元服後の名)、杯を賜るというので
松の根を植うるけふより岩の上を
ひろき林と人に知ららせむ
(松(女一宮)を植えた今日から岩の上を広い林として人に知らせるよう努力いたしましょう)
右大臣橘千蔭
岩のうへの苔のむしろにすむ靏(つる)は
代をさへながく思ふべきかな
(もし藤原君が帝となり国を治め給うならば、天下は富み栄えるであろう、そういうお方である)
左大臣源忠恒
卵(かひ)のうちに昨日は見えし靏の子の
今日はうへにもならびゐる哉
(昨日まで殻の中の卵のような幼い御方とお見上げした女一宮(鶴の子)が、今日は何と立派に成長せられて、藤原君の北方としておならびになられた事よ)
中納言行忠
葦田鶴(あしたづ)のうつる千年のやどりには
今や沙子(いさご)の岩となるらん
(千年も生きる鶴(女一宮)のうつりすむ宿(正頼家)は、砂が岩になるほど久しく繁栄することでしょう)
のような祝い歌を詠われた。
そうして、女一宮の母である后の宮は、三条大宮のちかくに四丁に及ぶ大きな宮殿を持っていた。
后の宮私人ではなくて公のこととして、修理職に命じ、左大辨が監督して、この大きな宮殿四丁を四つに分割して、その分割した、一つの町に、檜皮葺きの大きな殿舎、屋根付きの廊下(細殿)、渡殿、車庫、板葺きの小屋などを沢山築造されて、その中の一つの町に、太政大臣の所有として、正頼の妻となった娘が住むようにした。
改築された三条に正頼夫妻は住む。四つに分割された一つに妻左太政大臣の娘が住み、また一つには北方となった女一宮が住んだ。
年月経て、子供が多くできた。
コメント
巻名
「むかし藤原の君ときこゆる一世の源氏おはしましけり」
に始まる藤原の君を巻名としている。この命名に従えば
「むかし式部大輔左大辨かけて清原の王ありけり」に始まる第一巻は「清原の王」
と名づくべきであったと思われる。
然るに作者が「俊蔭」としたのは,全巻を通じての主題「琴」の由来は清原王にではなく、その子俊蔭に求むべきであるからだったのであろう。
尤もこの巻もうつほ物語を通じての副主題、求婚譚の女主人公あて宮を中心としているから、「あて宮」とすべきでもあろうが、あて宮の巻名は後出するし,次々とあて宮のこどが多いので、ここではむしろあて宮の背景としての「藤原の君」がふさわしいであろう。
巻序
底本は第四巻であるが,俊蔭巻の並二で第三巻となる。次の年立で明らかなように,第一巻俊蔭よりも二十七年、第二巻忠こそよりも十五年後のことであり,巻末も第一巻より一年先にのびているが,第二巻は十九年前に終わっている。
この巻の頂位は九大本系と一致するが、抜本以外の流布本系は皆第二巻となっている。
年立
嵯峨帝ー朱雀帝十三年(或は十四年)に到る正頼四十九歳の秋(或は五十歳の夏)まで四十九年間。正頼十五歳の時、太政大臣女,並に女一官と結婚、十七歳の時、大君仁寿般誕生、三十七歳の時、九君あて宮誕生となる。
あて宮十二歳にて裳着(正頼四十八歳)、十三歳の秋或は十四歳の夏)まで。
この春の巻「三のみこなかのおとゞにて云々(本書二一八頁ノ一四行│二二一頁ノ六行)の三十八行が錯簡でないならば、藤原の君の年代は一年延びる筈である。
(日本古典文学大系 藤原の君扉の一部)
お解りのように、「としかげ」「忠こそ」「藤原の君」
三巻の書かれている内容は時代が並んでいる。研究される方は興味があるであろうが、私みたいに、ただ読む者には、何と煩雑なこと、である。
「藤原の君」を読み終えるとすっきりとすのだろうか、平安の読者は、このような煩雑で回りくどい物語の進行を、楽しく読んだのであろうか。
宇津保物語を参考にして「源氏物語」は書かれているので、作者の紫式部は、この点を考慮して書いたのだろうか。話のテンポの違いがはっきりする。
太政大臣の娘には男の子供が四人。娘が五人。宮の方は十五歳で出産されてから、男子八にん、女子九人。
まず
宮の大君は、・太郎・次郎・三郎・四郎、次々とお産みになった。
大イ殿(太政大臣)のお方は、五郎・六郎とお産した。
宮の方は、七郎・八郎。
大イ殿の方に、九郎、
宮に十郎、
大イ殿(太政大臣)に中の君・三の君・四の君、
宮、五六七八九十並んでお産みになっった。
また、大イ殿に、十一、十二の君、
宮、十三、十四の君、続いて同時にお二人、男の子をお産みになる、
かわるがわる、このように出産なさるが、大イ殿と宮の方の間は嫉妬をするようなこともなく、見るも麗しい清らかな関係であった。
こうして、女一宮や大イ殿のお産みになった子供達は、男子は官位を賜ってそれぞれ宮廷に仕え、元服の式を挙げ、女は裳着や髪上げの式を行って、結婚したり宮廷に仕えたりする。
子供達一人も欠けることがなく成長するほどに、父親正頼は大臣の下、大納言正三位に成られた。
沢山の子供達が美しく心清く成長したので、世間は、
「このご一家は凡人でなく神仏の類で、天女が下ってお産みになったのだ」
と評判になった。
そうして、宮のお産みになった
太郎、左大辨 忠純(ただすみ)年三十。
次郎、兵衛の佐 師純(もろずみ)年廿九。
この二人は共に宰相である。
三郎 右近の中将蔵人の頭 祐純(すけずみ)年廿八
四郎 左衛門佐 連純(つれずみ) 年廿七
これらは宮の子供。大イ殿の子は、
作品名:私の読む「宇津保物語」第三巻 藤原の君 作家名:陽高慈雨