Desire
5日目:それは淡い宝石のような
「おはよう、リア」
今日もこの世界は変わらない。彼はいつものように窓際の椅子に腰掛け、窓越しの月を悲しげに見つめている。そしてリアに声をかけ、儚げに笑うのだ。
「……ねえ」
こうなったのはつい最近。なのに、この現実は世界に溶け込みつつある。リアもそれを受け入れてしまっている。彼の、氷のように冷たい手はあくまでやさしくリアに触れるのだと、リアは知っている。
だから、この世界は変わらない。
本当に、それでいいのかは別として。
「あなたが死んで、"彼女"は喜ぶの?」
「喜びは、しないかもね。でもね、現状はとてもおかしいんだ。俺がこうしてリアと話していることがすでにおかしい。本当はありえないことだから」
彼は死にたがっている。病気の彼女を救うために。その理屈がどうしてもリアにはわからない。誰かが患った病気は、誰かが死ぬことで治るはずがない。この世界で治せる病気は、どれもその病気に合った処置によって治すのだ。
彼の言うことは間違っている。あるいは、嘘。
「俺がこの世界から消え去らない限り、なにも変わらない。彼女が患った"病気"は治らない」
それなのに、リアは彼の言葉に耳を傾けてしまう。
誰かが死ねば、あなたが死ねば、"彼女"の病気は本当に治るの? なら、わたしのために誰かが死ねば、わたしの赤い瞳は別の色に変わるのかしら? この白髪は、色白い肌は、変わるのかしら?
大嫌いなこの身体は、世界の"普通"になれるのかしら?
そんな風に考えさせる、あなたはわたしのために死んでくれないのにね。
「……じゃあ、あなたの名前を教えて」
「俺の名前? どうして?」
「あなたはわたしに、"彼女"のために自分を殺せと言うの。"彼女"のことも、あなたのことも、わたしはなにも知らないのに、どうしてわたしにばかり押し付けるの? そんなの不公平だわ」
「俺の名前を知ったら、リアは俺を殺してくれるのかい?」
彼は窓辺の椅子に座ったまま、リアに問うた。
彼の手には白い本。きっと本棚にあったものだろう。どんな本かは、覚えていないのだけど。
本を閉じ、片手で表紙を撫でながら、彼はリアの言葉を待っていた。
「それは、わからない。……でも、自分を殺す人の名前を覚えておきたい人がいるのなら、自分が殺す人の名前を覚えておきたい人も、いるかもしれないでしょう?」
「俺を殺す気が起きたのは嬉しいけど、それは困ったな。リアはきっと後悔するよ」
戸惑いを浮かべる、彼の淡い紫の瞳は美しい。彼が首から提げたペンダントと同じ、アメジストのように。
首を傾げるたびに揺れる、彼の銀髪は美しい。月の光を受け止めて輝いている。
ああ、わたしもそんな色に生まれたかった。それならきっと、世界に受け入れてもらえたかもしれない。こんな色のない世界じゃなく、もっと鮮やかな世界に。
「それでもいい、教えて」
だから、わたしは知りたい。あなたをもっと知りたい。
わたしにないものを持つあなたのことを。
「……俺の名前はね、エイル」
「えいる……」
「そう、それが君が殺す男の名前だよ」
わたしが殺すかもしれない、あなたのことを。
「……今日はもう遅いから、寝た方がいいね」
「わたしはまだ起きたばかりよ」
目覚めればいつも月の夜。彼が声をかけるまで、わたしはずっと眠っている。この部屋で。
なんて非生産的なんだろう。とは考えない。考えたって仕方ないのだから。どのみち、彼がこの部屋にいる以上、勝手な真似もできないだろう。
「目が充血してる。疲れてるんじゃないかな?」
「それは、知らない男がずっと同じ部屋にいれば、疲れもするわ」
「あはは、俺のせいか」
そんなリアの考えを知ってか知らずか、彼はリアをベッドに押し戻し、白いシーツをかけなおす。
冷たい手がリアの瞼を落とし、額に柔らかい感触を残す。
「……おやすみ、リア。よい夢を」
わたしは眠り続ける。この部屋で。彼が声をかけるまで。
《…*…》
やさしい亜麻色のフローリング。ところどころ落書きのある乳白色の壁。窓の外には背の高い木がリアと同じ目線で生い茂っている。
リアは走る。どこか遠くから甲高い声と、それを囃し立てるコーラスが響いている。
「殺せ! 魔女を殺せ!」
リアは走る。何度も転びそうになりながら廊下を駆け、階段を上り、息を切らして立ち止まった。咄嗟に振り返るが、そこには誰もいない。ほっと胸を撫で下ろし、息を整える。
辺りを見回し、近くに隠れられそうな教室がないか探す。廊下の隅に視聴覚室と書かれた、ひっそりと佇む扉を見つけ、音を立てないように開けた隙間へ身体を滑り込ませた。
部屋の中は雑然としていた。ホワイトボードや世界地図。地球儀や、授業で使われる大きな三角定規など、いろいろなものが所狭しと並んでいた。あまり人の出入りがないのだろうか、少し埃っぽい。
入り口からは死角になる机の陰に身を潜め、膝を抱える。白地の制服も、その上に羽織った黒いカーディガンもすっかり砂埃で汚れてしまった。スカートの裾に入った青いラインも、砂埃にまみれ白くなっている。
額に浮かぶ汗を拭えば、そこはひりひりと小さな痛みを訴えた。きっと汗で日焼け止めが流れてしまったのだろう。リアの肌は他の人と比べて日に弱い。このまま放っておけば赤く腫れてしまいそうだ。
そもそもどうしてこんなことになっているのだろう。リアは一生懸命考えるけれど、理由はいつまで経ってもわからない。クラスメイトは自分を魔女と罵り、誰かが銀色のナイフを向けて脅迫する。
リアはただ、髪が白くて目が赤いだけ。飼育小屋のシロウサギだって同じなのに、ウサギは可愛がられ、リアは迫害される。
この世界は理不尽だと、いつも思っていた。
「……っ!」
足音が近づいてくる。リアは息を殺し、身体を縮こめた。校舎の中ではなく、外に逃げればよかった。いまさらそんな風に考えながら、どうか見つからないでとリアは祈る。
扉の開く音が聞こえ、いくつかの話し声が部屋に響いた。
「……いないわ」
「本当? どこに逃げたのかしら」
足音を数える。3人。
「探してないのはもうここだけじゃない」
リアの隠れた机の上から声がする。両手を口に当てた。吐息に気づかれないように、心臓の音が聞こえないように。このまま気づかれないように、お願い。
ふと、窓の外からうっすらと差し込んでいた光が閉ざされる。
「いたぁ」
机の下に影を落とす、ほっそりとした足が伸びる。視線を上に移せば、濁った二つの瞳が、机の下で小さくなったリアを見ていた。
気づかれた――
彼女の手には、銀色のナイフ。
「死ねよ、魔女」
涙で世界が滲んだ。どうして、どうしてこんなことに。
わたしは、魔女なんかじゃない。私の名前は……。
「魔女なんかじゃ……」
なにかが裂ける音を聞いた。
そこから先の記憶はない