えさ(家に)帰りたい
えさ(家に)帰りたい
今年(二○一三年)百三歳になる祖母がいる。生まれた年は、「ハレー彗星騒動」があった一九一〇年である。私がハレー彗星のことを知ったのは小学校五年生だった。ハレー彗星は七六年に一回地球に接近すると知り、次回接近するのは私が三一歳になる一九八六年で、それは小学五年生の私にとっては遠い遠い先のことであった。
父が亡くなったのが、一九八六年だった。この年は、勿論ハレー彗星が話題になり、知識の乏しかった前回の接近顛末を紹介していた。
二○一○年祖母は百歳になった。国からお祝いされ、地元紙に市長や家族と一緒の写真が掲載された。そのとき祖母の生まれた年がハレー彗星騒動の年と同じ一九一〇年であることを知ったのだ。
祖母は、本土からサハリン(樺太)に渡った祖父の後妻となり、三男四女をもうけた。当時の樺太ではサケ・マス漁が豊漁で、祖父の家はお手伝いさんを雇えるほどのいい暮らしをしていたが、終戦で本土に引き揚げるときは何もかもすべてを失ったと聞いている。
祖父は、一代で築いた財産を一瞬にして失ってしまったため、第二の人生の目標を決めることができず、引き揚げ先では、もともと体が弱かったということもあり、寝たり起きたりの生活だった。そのため生活費は祖母が工面することになり、身を粉にして働いた。
祖母についてはいつも働いているという記憶しかない。そのため気が強く、言葉も素っ気なかった。孫に対しても、とりたて優しいということはなかった。だから、おばあさん特有のほのぼのとした優しさを感じたことはなかった。
私が中学に入学した年の四月、父の親戚で不幸があり、私を残して家族は一週間家を空けた。私が学校を一週間も欠席するのはまずいと親が考え、私だけを置いて葬儀に行ったのである。その間の私の世話を祖母に頼んだのだった。祖母との二人だけの生活。祖母を独り占めしたという思いもあったが、それよりも祖母の厳しさをそのとき感じた。
それは日曜日の夜のことだった。私は六年生から欠かさず観ていたテレビ番組で、アメリカのスパイ・アクションドラマを観てから寝ようとしていたら、もう遅いから寝なさいと、祖母が言った。それで毎週楽しみにしている番組であるということをいくら説明しても受け入れてくれなかった。結局、私は諦めて、そのままふて寝しようとしたら、そんなに観たいなら観てもいいと言ったが、それなら最初から観せてくれれば良かったのにと思いながら、そのまま意地を通したのだった。
二〇一三年六月、母より祖母が余り長くないことを知らされた。それで、一度顔を見せるようにとのことだった。
早速面会に行くことにした。一人では行きにくいので、母を誘った。果たして祖母は私のことを覚えていることだろうか? 余り期待はできない。ここ何年もご無沙汰していたし、少しボケ気味とも聞いていた。そんなことを思いながら、私はおそるおそる祖母の顔を覗いて、自分の名前を言うと、最初怪訝な顔をしていた祖母が、思い出したように私の名前を無邪気な子供のように叫んだ。私には喜んでいるように見えた。嬉しかった。私は五十八の初老ではあるが、孫は孫。しかも初孫である。
祖母の顔は、私の知っている端整な顔立ちとは程遠かった。入れ歯を外しているせいだろう。あごがしゃくりあがっていて、すぐに本人とは判別できなかった。祖母の顔を見た人は皆、私と同じ感想を抱いたであろうが、そのことを口にする者はいなかった。ただ、妹の夫だけは、祖母を面会した時の感想(あごが出ていること)をストレートに口に出していた。周りで聞いていた血縁者は、その時何故か無言だった。血縁者は、言い方次第でギャグになりそうなことは暗黙のうちに封印してしまうものなのだろうか?少なくとも私自身、口に出すことに抵抗があった。
祖母の面会はそれ以後も続いた。本当は、母に行くように言われたとき、一度でやめようと思っていたが、祖母が私のことを意外にも覚えていたことに気をよくしてまた来ようと考えたのだ。
二回目の面会の時は私一人であった。まず第一声に何と言えばいいのか迷った。〈元気か?〉と、言っても目の前の祖母はどう見ても元気そうではないし、・・・・。果たして会話が成立するのか分からなかった。それで、水を飲むかと、吸い飲みを取って見せると、こっくり頷いた。それで吸い口を口の中に入れ傾けると、水が勢いよく出てきて喉を詰まらせた。傾ける加減が分からなかったのである。このとき六年前に十八歳で亡くなった飼い犬を思い出した。飼い犬は前夜から体調が悪化し、亡くなった当日の朝は食欲もなかった。水だけでもと、いつものように注射器で水を与えていると水が喉に詰まり、その後息を引き取ってしまったのである。以後、罪悪感は消えることがなかった。確かに、飼い犬は瀕死の状態だったので、もはや時間の問題だったと思うが、死期を早めたことは否めないと思う。
祖母が喉を詰まらせたとき、飼い犬の悪夢と重なって、私はすっかり慌ててしまったが、大事に至らずほっとした。こうして単独二回目の面会は終わった。
その後、吸い飲みの傾け具合を会得した私は、「水飲むか?」が祖母との合言葉になった。そのうち祖母は私が「水飲むか?」と訊く前に、自分の唇に人差し指を二、三回タップさせるようになった。水が飲みたいときの合図である。
七月に入り、少し暑くなった頃、私はいつものように祖母に水を飲ませると、いきなり祖母は「ぬるい!」と言いだした。それで次の面会からは、コンビニで買った冷えたミネラルウォーターを飲ませることにした。この頃から私は、祖母と別れるときに「また来るから」と言い出した。文字通り再会を約束しての別れの言葉であり、辞令的な言葉ではない。だから、今までのご無沙汰の罪滅ぼしをするかのように、週に数回面会に行った。
最初の頃は起きていたが、だんだん眠っていることが多くなった。そんなときは顔を見て帰る。内心ほっとしている自分がいる。起きていれば声をかけるが、これがまた難儀である。うまくコミュニケーションが取れないのである。入れ歯を外しているし、訛もある。ただ「え(家)さ帰りたい」と「ありがとう」だけははっきり聞き取れる。「えさ帰りたい」は祖母の口癖になった。
ある日、「えさ帰りたい」と言う祖母に、家に帰っても寝ていないとだめだよと言うと、祖母はそれでもいいと言う。私は何も言えなかった。わが家で臨終を迎えたいというのは本能なのかもしれないと思った。
いつものように面会に行くと、いつもの病室に祖母がいない。すかさず廊下に出て、名前を確かめると名前がない! 退院? まさかね。看護師に訊くと、病室を移ったとのこと。早速行くと祖母はいた。眠っていたので、そのまま帰った。容体が悪くなったから移ったと後から訊いた。
病室を移ってからも祖母は、相変わらず水が飲みたいとせがんだが、面会人は、もはや勝手に水を飲ませられなくなっていた。この時ほどつらいことはなかった。正直なところ、できれば面会に来たくなかったが、このまま来なければ「また来るから」とは言えなくなるし、今までのご無沙汰の罪滅ぼしにならないではないかと思い、つらくても最期まで来ようと決めた。
今年(二○一三年)百三歳になる祖母がいる。生まれた年は、「ハレー彗星騒動」があった一九一〇年である。私がハレー彗星のことを知ったのは小学校五年生だった。ハレー彗星は七六年に一回地球に接近すると知り、次回接近するのは私が三一歳になる一九八六年で、それは小学五年生の私にとっては遠い遠い先のことであった。
父が亡くなったのが、一九八六年だった。この年は、勿論ハレー彗星が話題になり、知識の乏しかった前回の接近顛末を紹介していた。
二○一○年祖母は百歳になった。国からお祝いされ、地元紙に市長や家族と一緒の写真が掲載された。そのとき祖母の生まれた年がハレー彗星騒動の年と同じ一九一〇年であることを知ったのだ。
祖母は、本土からサハリン(樺太)に渡った祖父の後妻となり、三男四女をもうけた。当時の樺太ではサケ・マス漁が豊漁で、祖父の家はお手伝いさんを雇えるほどのいい暮らしをしていたが、終戦で本土に引き揚げるときは何もかもすべてを失ったと聞いている。
祖父は、一代で築いた財産を一瞬にして失ってしまったため、第二の人生の目標を決めることができず、引き揚げ先では、もともと体が弱かったということもあり、寝たり起きたりの生活だった。そのため生活費は祖母が工面することになり、身を粉にして働いた。
祖母についてはいつも働いているという記憶しかない。そのため気が強く、言葉も素っ気なかった。孫に対しても、とりたて優しいということはなかった。だから、おばあさん特有のほのぼのとした優しさを感じたことはなかった。
私が中学に入学した年の四月、父の親戚で不幸があり、私を残して家族は一週間家を空けた。私が学校を一週間も欠席するのはまずいと親が考え、私だけを置いて葬儀に行ったのである。その間の私の世話を祖母に頼んだのだった。祖母との二人だけの生活。祖母を独り占めしたという思いもあったが、それよりも祖母の厳しさをそのとき感じた。
それは日曜日の夜のことだった。私は六年生から欠かさず観ていたテレビ番組で、アメリカのスパイ・アクションドラマを観てから寝ようとしていたら、もう遅いから寝なさいと、祖母が言った。それで毎週楽しみにしている番組であるということをいくら説明しても受け入れてくれなかった。結局、私は諦めて、そのままふて寝しようとしたら、そんなに観たいなら観てもいいと言ったが、それなら最初から観せてくれれば良かったのにと思いながら、そのまま意地を通したのだった。
二〇一三年六月、母より祖母が余り長くないことを知らされた。それで、一度顔を見せるようにとのことだった。
早速面会に行くことにした。一人では行きにくいので、母を誘った。果たして祖母は私のことを覚えていることだろうか? 余り期待はできない。ここ何年もご無沙汰していたし、少しボケ気味とも聞いていた。そんなことを思いながら、私はおそるおそる祖母の顔を覗いて、自分の名前を言うと、最初怪訝な顔をしていた祖母が、思い出したように私の名前を無邪気な子供のように叫んだ。私には喜んでいるように見えた。嬉しかった。私は五十八の初老ではあるが、孫は孫。しかも初孫である。
祖母の顔は、私の知っている端整な顔立ちとは程遠かった。入れ歯を外しているせいだろう。あごがしゃくりあがっていて、すぐに本人とは判別できなかった。祖母の顔を見た人は皆、私と同じ感想を抱いたであろうが、そのことを口にする者はいなかった。ただ、妹の夫だけは、祖母を面会した時の感想(あごが出ていること)をストレートに口に出していた。周りで聞いていた血縁者は、その時何故か無言だった。血縁者は、言い方次第でギャグになりそうなことは暗黙のうちに封印してしまうものなのだろうか?少なくとも私自身、口に出すことに抵抗があった。
祖母の面会はそれ以後も続いた。本当は、母に行くように言われたとき、一度でやめようと思っていたが、祖母が私のことを意外にも覚えていたことに気をよくしてまた来ようと考えたのだ。
二回目の面会の時は私一人であった。まず第一声に何と言えばいいのか迷った。〈元気か?〉と、言っても目の前の祖母はどう見ても元気そうではないし、・・・・。果たして会話が成立するのか分からなかった。それで、水を飲むかと、吸い飲みを取って見せると、こっくり頷いた。それで吸い口を口の中に入れ傾けると、水が勢いよく出てきて喉を詰まらせた。傾ける加減が分からなかったのである。このとき六年前に十八歳で亡くなった飼い犬を思い出した。飼い犬は前夜から体調が悪化し、亡くなった当日の朝は食欲もなかった。水だけでもと、いつものように注射器で水を与えていると水が喉に詰まり、その後息を引き取ってしまったのである。以後、罪悪感は消えることがなかった。確かに、飼い犬は瀕死の状態だったので、もはや時間の問題だったと思うが、死期を早めたことは否めないと思う。
祖母が喉を詰まらせたとき、飼い犬の悪夢と重なって、私はすっかり慌ててしまったが、大事に至らずほっとした。こうして単独二回目の面会は終わった。
その後、吸い飲みの傾け具合を会得した私は、「水飲むか?」が祖母との合言葉になった。そのうち祖母は私が「水飲むか?」と訊く前に、自分の唇に人差し指を二、三回タップさせるようになった。水が飲みたいときの合図である。
七月に入り、少し暑くなった頃、私はいつものように祖母に水を飲ませると、いきなり祖母は「ぬるい!」と言いだした。それで次の面会からは、コンビニで買った冷えたミネラルウォーターを飲ませることにした。この頃から私は、祖母と別れるときに「また来るから」と言い出した。文字通り再会を約束しての別れの言葉であり、辞令的な言葉ではない。だから、今までのご無沙汰の罪滅ぼしをするかのように、週に数回面会に行った。
最初の頃は起きていたが、だんだん眠っていることが多くなった。そんなときは顔を見て帰る。内心ほっとしている自分がいる。起きていれば声をかけるが、これがまた難儀である。うまくコミュニケーションが取れないのである。入れ歯を外しているし、訛もある。ただ「え(家)さ帰りたい」と「ありがとう」だけははっきり聞き取れる。「えさ帰りたい」は祖母の口癖になった。
ある日、「えさ帰りたい」と言う祖母に、家に帰っても寝ていないとだめだよと言うと、祖母はそれでもいいと言う。私は何も言えなかった。わが家で臨終を迎えたいというのは本能なのかもしれないと思った。
いつものように面会に行くと、いつもの病室に祖母がいない。すかさず廊下に出て、名前を確かめると名前がない! 退院? まさかね。看護師に訊くと、病室を移ったとのこと。早速行くと祖母はいた。眠っていたので、そのまま帰った。容体が悪くなったから移ったと後から訊いた。
病室を移ってからも祖母は、相変わらず水が飲みたいとせがんだが、面会人は、もはや勝手に水を飲ませられなくなっていた。この時ほどつらいことはなかった。正直なところ、できれば面会に来たくなかったが、このまま来なければ「また来るから」とは言えなくなるし、今までのご無沙汰の罪滅ぼしにならないではないかと思い、つらくても最期まで来ようと決めた。
作品名:えさ(家に)帰りたい 作家名:mabo