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知らぬが仏・言わぬが花

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 寝室で芳樹はテレビを観ていたら、美和子が入って来た。
「テレビ消して寝るわ」
 いつも芳樹は美和子が寝室に来るまでテレビを観て、来たら寝ることにしている。
「あなた、ちょっといい?」
「絵里のことか?」
「そう。日中ゆっくり話せないから」
「いいよ」 
「悪いわね。それでね、…いつもの私の悪い癖で、絵里の彼が挨拶に来る日を勝手に決めちゃったけど、あれでよかったかしら?」
 美和子は珍しくしおらしかった。
「おい、どうしたんだよ? お前らしくないな」
「それならそれでいいんだけど。……絵里も結婚することになったことだし、…実は、絵里のことで、あなたに、その、言ってないことが、…あるの…」
 美和子は、しおらしさを通り越して、歯切れが悪くなった。
「えっ、絵里のこと?…」
 芳樹は、言葉が止まってしまった。
「実は、…絵里の父親」
「それ以上言うな!…それ以上言ったら、…離婚だ」
 芳樹は突然激しい口調になった。
「あなた! どうして?」
 美和子は、いきなり言葉を制されて面食らっていた。
「言わなくてもわかってる!」
「ええ? どうして知ってるの?」
 美和子は不思議だった。
「…お前が東京にいたとき、同じアパートに鈴木のおばあさんがいたよな。お前が留守のとき、年下の彼氏のこと教えてくれたんだ。キス・パーティ以来、オレ、何か気に入られちゃってさ。勿論、美和子には言わないように口止めされてたけど、もう時効だからいいよな」
「鈴木さんから?…私も口止めしといたんだけど…約束破ったんだわ」
「だから今があるんじゃないか。鈴木さんには感謝しなきゃ」
「そうね。…あなたが知ってるんだったら、話しやすいわ」
「だから、もう話すのはやめてくれ! 美和子が話してしまったら、その事実は本当になってしまうよ。よく『訊かなかったことにしてくれ』って言うけど、一度訊いたことは取り消すことはできないよ。だから…」
「………わかった・わ。……」
 美和子は複雑な思いだった。
「ということは…あなた、知ってて結婚したのね!」
「そうだよ。あのときの美和子は見ていられなかった。何をしでかすか、冷や冷やものだったよ」
「じゃあ、あなた、同情で私と結婚したの?」
 美和子は急にムキになった。
「ちがう! 同情で結婚ができるかよ」
「………」
「やっぱり好きだったんだよ。事情を聞いちゃうと、結婚を躊躇しそうだったから、ここは知らんぷりを装って強引に進めるしかなかった。不思議に迷いはなかったよ。ただ、美和子の弱みにつけ込んでいるという後ろめたさはずーっとあったよ」
「あのときは、あなた勘違いしてると思ったから、すぐにでも本当のこと言おうとしたんだけど、あなた取り憑かれたように強引に進めちゃうから何も言えなかったし、父さんや姉夫婦からあれだけキツいこと言われても、ただひたすら謝っていたあなたを見て、ここで本当のこと言ったら私たち二人だけの問題じゃなく、いろんな人に迷惑かけると思って、悪いけど言うのをやめたの…」
 美和子は、最後の言葉は涙声だった。
「それでよかったんだよ。金輪際、このことには触れないよ。知ってるのはオレとお前の二人だけ。このままお互い墓場まで持っていこう。いいね」
「はい」
 結婚して今日まで背負ってきた肩の荷をやっと下ろせたという解放感と、これからは共犯者がいるという連帯感が交じった晴れ晴れとした美和子の返事だった。

 美容室には、開店以来から贔屓にしていただいている石(いし)山(やま)綾(あや)が来ていた。石山は元銀行マン夫人で、ちょっとウルサ型でおまけに世話好きな六十一歳の熟女である。芳樹が予備校の採用試験に落ちて、美和子に話そうとしていたとき、ちょうど店に予約を入れていて美和子が気を遣うお客さんであった。
「先生、お宅の絵里ちゃんにいい話持ってきたんだけど。もしかして、もういい人、いるのかしら?」
「いつもお気にかけていただいて、…実は、結婚が決まりそうなんです」
 美和子は言いにくそうに言った。 
「あら、そう! それはおめでたいわ。それで、いつなの?」
「今度の日曜日に、先方が挨拶に来ることになってるんです」
「そうだったの。それはおめでとうございます」
「ありがとうございます。せっかくのお話なのに、申し訳ありません」
「いいえ、それはいいのよ。おめでたいことだし。それよりも相手の方ってどんな方?」
 美和子が予想していたとおりの質問だった。石山は?人はいい?が話し好きなので、あちこちで吹聴するところがある。そのため、何でもかんでも言うわけにはいかない。
 優秀な美容師の要素とは、技術は勿論であるが、更に話術が付け加わる。それも八方美人的な話術では、すぐにメッキが剥がれる。多様な客を相手にするわけだから、いわゆる?つかず離れず?的な応対が要求される。その?つかず離れず?の感覚を取得するのがまた大変である。学校では教えてくれないから、実践で習得するしかない。
  
「相手の方、学校の先生をしてるんです」
「あら、ご主人と同じゃない? ご主人のご紹介?」
「いえ、その方は中学校の先生で、主人は小学校で、二人は面識はないです」
 美和子は話の矛先が芳樹に向かうのではないかと気を揉んだ。
「やっぱり絵里ちゃん、お父さんが学校の先生だから、お婿さんも先生なのねぇ。血は争えないものねぇー。私持ってきた縁談の相手は、主人の元部下の息子さんで、その方も銀行員なのよ」
「まぁー、そうでしたか」
 美和子は、石山が『血は争えないものねぇー』と言ったとき、石山が恵比須様に見えたと同時に、この話題はここで終わってくれないかと心の中で祈っていた。そのときであった。
「そういえば、ご主人退職なさったの? …もうそんな歳だったかしら? 私より五つか六つ下だったような気がするけど、…」
 石山は思い出したように芳樹のことに話題を変えた。美和子はついにこの話題になってしまったかと観念した。石山が急遽、閻魔大王に変わってしまった。 
「退職はしたんですが、定年を待たずに早期退職したんです」
「あら、そうだったの。…お体か何か?」
 石山は徐々にたたみ込んできた。ここで曖昧なことを言うと、曲解して取られ、それに尾ひれ背びれがついて世間に流れてしまう。
「体は、大きな病気とかはないんですけど、体力が落ちてきてしんどくなったので、少し早いんですけど退職したんです。それで今は体力的にも負担の少ない家庭教師をしています」
 美和子は、どうせ訊かれると思ったので、家庭教師のことも話した。
「そうだったの。それはそれは」
 石山は、自分が訊こうとしたことを先回りして言われたので、出鼻をくじかれた思いであった。そのせいか知らないが、別な話題に変わった。

 絵里の彼氏が挨拶に来る前夜である。
「絵里ちゃん、いよいよ明日、彼来るのね」
「ママ、明日お願いね」
「ママはいいけど、問題はお父さんね」
「お父さん、お願いします」
「ん? 明日、何の日だった?」
「お父さん! 明日は彼が…」
「父さん、明日、用事あったかも知れない。だからもう寝るよ」
 芳樹はそそくさと二階に上がってしまった。
「お父さん! ちょっと待って。明日家にいてよねー」
作品名:知らぬが仏・言わぬが花 作家名:mabo