知らぬが仏・言わぬが花
知らぬが仏・言わぬが花
1
四月、桜が満開になり、新年度がスタートするが、北海道の桜の開花は早い地域で四月下旬、遅いところでは五月に入ってからである。紅葉前線とは正反対で一番遅い。
林芙美子の詩の一節に「花の命は短くて…」というのがある。女性を花にたとえたらしいが、花なら真っ先に桜を思い浮かべる。首を長くして待っていたのに、一瞬にして儚く散っていく。だからこそ、咲いている間は精一杯愛でるのであろう。
「花の命は短くて」の前の言葉は「あなたも知ってゐる 私もよく知ってゐる」である。お互い知ってゐる?ことは、はっきり口に出すべきときと、そうではないときがある。
竹(たけ)村(むら)芳(よし)樹(き)は小学校教師を三十一年間勤め五十五歳で早期退職した。六十歳の定年まで全うしようと思っていたが、できなかった。
芳樹は退職する数年前から学級を持っていなかった。教務主任という事務的な仕事をしていた。この仕事はある程度、年を取るとまわってくるもので、その後教頭試験を受けて、管理職になるのが一般的な上昇指向者のパターンである。しかし、たまに管理職を嫌い、平教員を貫く者もいる。これが結構大変なのである。芳樹もその大変な方を選択した一人であった。
四月のある日、芳樹は妻の美(み)和(わ)子(こ)に軽い気持ちで今後のことを話してみた。
「オレ、来年の三月で辞めようかな」
「再就職の口あるの?」
「あればいいのか?」
「あればね!」
美和子の答えは意外にもあっさりしていた。それに気をよくした芳樹は本気で?就活?を始めてみようと思った。
芳樹は特別な資格・特技がないので、今の仕事や趣味を生かせる予備校や塾の講師に目星をつけて、新聞等の求人欄を物色した。すると二、三、手頃なのがあり、準備を進めた。以後、土曜や日曜は採用試験を受けるために費やされた。
芳樹の住んでいるところは、札幌から車で一時間ぐらいの地方都市である。第一希望の予備校は札幌駅の近くだった。この予備校は公務員試験のための予備校で、芳樹は?数的処理?担当講師として応募したのである。一次、二次試験と通過し、最後の三次試験は数学の模擬授業と面接だったが、何とか内定をもらったのである。
これで再就職の口が確保できた。美和子に言われた条件が満たされたので、早速、校長に早期退職することを話した。退職するときは一年前から申告しておかなければならなかった。
美和子は一つ年上の姉さん女房で、自宅で美容室を営んでいる。多いときはスタッフを見習いも含めて三人雇っていたが、今は一人でやっている。
仕事が終わり、遅い晩ご飯を一人娘の絵(え)里(り)と二人で食べていた。芳樹は先に済ませ、二階の自分の部屋に引っ込んでいた。
「絵里、お父さん予備校受かったんだって」
「あっそう。やっぱり学校辞めるの?」
ぶっきらぼうに言う絵里は二十七歳。保育士。独身。彼氏はいるが結婚はまだ先らしい。
「お父さんには、ホントに困るわよね」
美和子が愚痴る。
「仕事決まったんだから、いいんじゃないの」
絵里は大して意に介していない。
「絵里、あなたね。給料がだいぶ少なくなるのよ!」
「えっ、そうなの! じゃあ、どうして辞めるの許したの?」
「そんなこと言ったって、お父さん、辞めるってきかなかったんだから」
美和子は、絵里も社会人になり手がかからなくなったし、芳樹をちょっと早いけどここで解放させてもいいかなと思っていた。そうなれば生活費を少し切り詰めなければならないな、などと皮算用していた。
十月、芳樹宛てに一通の封書が届いた。くだんの予備校からだった。内容は、?内定取り消し?であった。
日曜日の午後、芳樹は美和子に予備校のことを話した。
「ママ、あのな」
「何よ?」
「実は、…」
「用があるなら、早く言って。これから予約のお客さんが来るんだから」
「じゃあ、あとでいいや」
「んーもー、早く言ってよ。気になるでしょ」
「じゃ、…言うよ。予備校、…落ちた」
「えっ? …再就職の予備校よね。…それじゃあ、来年どうするのよ? 無職よ! プータローよ、お父さん、わかってるの!」
「だから、…今後について…」
「お父さん、退職を撤回してよ。校長先生にお願いして。わかったわね。これからお客さんが来るから話は夜ね」
美和子は予備校の結果を訊くと一瞬うろたえたが、芳樹が今後すべきことを機関銃のようにまくし立てて店に出た。一方的に言われた芳樹は、美和子の期待に応えるのはかなり厳しいと感じていた。
芳樹はベッドに横たわり、美和子が風呂からあがってくるのを暗い気持ちで待っていた。〈やっぱり退職撤回は無理だよな。美和子、納得しないよな…〉
やっと美和子が風呂からあがって来た。
「ああ、いい湯だった。今日も疲れたわー。今日のお客さん、特に気遣うのよねー。…ところでお父さん、昼間の話だけど、退職撤回することできるんでしょ? …ねったら? お父さん!」
「……」
「あれ? 寝ちゃったのかしら? お父さん、起きて! 寝たふりでしょ!」
美和子は芳樹の身体を何度も揺すった。
「わかったよ。…」
芳樹がやっと口を開いた。
「だからね、退職の撤回、早速明日してよ」
「それは無理だよ」
「どうして!」
美和子は動転してしまった。
「実は、二学期始まってすぐに校長から退職について訊かれて、退職の意志は変わらないと最終確認したんだ」
「来年の三月まで、まだ先よ」
「でもだめだよ」
「じゃあ、どうする気? プータローになる気? 身体が悪いんだったらわかるけど。…私、そんなのイヤよ」
美和子は納得できなかった。〈どうして退職撤回することできないのよ。まだ先のことだというのに。…ただ頭下げればいいんじゃない。それで足りなければ土下座でも何でもすればいいのに。…〉
「まさか内定取り消しになるとはな、…正式採用でなかったしな。甘かった。…」
「とにかく落ちたんだから、もう何を言ってもしょうがないわよ。またどこか受けて絶対受かってよ!」
美和子は少し冷静になった。
「ごめん。またどこか受けてみるよ」
「ホントに頼むわよ、お父さん。しっかりしてよ。私寝るわ」
就活は振り出しに戻ってしまった。また明日からいろいろあたってみなければならない。芳樹は気が重くなってきた。
「お父さん! 何よこの手。びっくりするわよ」
突然、美和子が声をあげた。芳樹が美和子の胸を触ったのである。
「この手って、わかるだろう? 土・日のどっちかにしようねってことになってたろ。昨日してないんだからさー」
「今日は疲れているからだめ。また今度」
「今度とお化けに会ったことがないと言うぞ」
「会わなくたっていいじゃない。…それより私は寝ます。おやすみなさい。…あっ、それから、朝、勝手にしないでね!」
芳樹は諦めて寝ることにした。『朝、勝手にしないでね!』とは、以前、芳樹が勝手に自分のモノを寝ている美和子の後ろから入れたことがあったので、釘を刺したのであった。
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四月、桜が満開になり、新年度がスタートするが、北海道の桜の開花は早い地域で四月下旬、遅いところでは五月に入ってからである。紅葉前線とは正反対で一番遅い。
林芙美子の詩の一節に「花の命は短くて…」というのがある。女性を花にたとえたらしいが、花なら真っ先に桜を思い浮かべる。首を長くして待っていたのに、一瞬にして儚く散っていく。だからこそ、咲いている間は精一杯愛でるのであろう。
「花の命は短くて」の前の言葉は「あなたも知ってゐる 私もよく知ってゐる」である。お互い知ってゐる?ことは、はっきり口に出すべきときと、そうではないときがある。
竹(たけ)村(むら)芳(よし)樹(き)は小学校教師を三十一年間勤め五十五歳で早期退職した。六十歳の定年まで全うしようと思っていたが、できなかった。
芳樹は退職する数年前から学級を持っていなかった。教務主任という事務的な仕事をしていた。この仕事はある程度、年を取るとまわってくるもので、その後教頭試験を受けて、管理職になるのが一般的な上昇指向者のパターンである。しかし、たまに管理職を嫌い、平教員を貫く者もいる。これが結構大変なのである。芳樹もその大変な方を選択した一人であった。
四月のある日、芳樹は妻の美(み)和(わ)子(こ)に軽い気持ちで今後のことを話してみた。
「オレ、来年の三月で辞めようかな」
「再就職の口あるの?」
「あればいいのか?」
「あればね!」
美和子の答えは意外にもあっさりしていた。それに気をよくした芳樹は本気で?就活?を始めてみようと思った。
芳樹は特別な資格・特技がないので、今の仕事や趣味を生かせる予備校や塾の講師に目星をつけて、新聞等の求人欄を物色した。すると二、三、手頃なのがあり、準備を進めた。以後、土曜や日曜は採用試験を受けるために費やされた。
芳樹の住んでいるところは、札幌から車で一時間ぐらいの地方都市である。第一希望の予備校は札幌駅の近くだった。この予備校は公務員試験のための予備校で、芳樹は?数的処理?担当講師として応募したのである。一次、二次試験と通過し、最後の三次試験は数学の模擬授業と面接だったが、何とか内定をもらったのである。
これで再就職の口が確保できた。美和子に言われた条件が満たされたので、早速、校長に早期退職することを話した。退職するときは一年前から申告しておかなければならなかった。
美和子は一つ年上の姉さん女房で、自宅で美容室を営んでいる。多いときはスタッフを見習いも含めて三人雇っていたが、今は一人でやっている。
仕事が終わり、遅い晩ご飯を一人娘の絵(え)里(り)と二人で食べていた。芳樹は先に済ませ、二階の自分の部屋に引っ込んでいた。
「絵里、お父さん予備校受かったんだって」
「あっそう。やっぱり学校辞めるの?」
ぶっきらぼうに言う絵里は二十七歳。保育士。独身。彼氏はいるが結婚はまだ先らしい。
「お父さんには、ホントに困るわよね」
美和子が愚痴る。
「仕事決まったんだから、いいんじゃないの」
絵里は大して意に介していない。
「絵里、あなたね。給料がだいぶ少なくなるのよ!」
「えっ、そうなの! じゃあ、どうして辞めるの許したの?」
「そんなこと言ったって、お父さん、辞めるってきかなかったんだから」
美和子は、絵里も社会人になり手がかからなくなったし、芳樹をちょっと早いけどここで解放させてもいいかなと思っていた。そうなれば生活費を少し切り詰めなければならないな、などと皮算用していた。
十月、芳樹宛てに一通の封書が届いた。くだんの予備校からだった。内容は、?内定取り消し?であった。
日曜日の午後、芳樹は美和子に予備校のことを話した。
「ママ、あのな」
「何よ?」
「実は、…」
「用があるなら、早く言って。これから予約のお客さんが来るんだから」
「じゃあ、あとでいいや」
「んーもー、早く言ってよ。気になるでしょ」
「じゃ、…言うよ。予備校、…落ちた」
「えっ? …再就職の予備校よね。…それじゃあ、来年どうするのよ? 無職よ! プータローよ、お父さん、わかってるの!」
「だから、…今後について…」
「お父さん、退職を撤回してよ。校長先生にお願いして。わかったわね。これからお客さんが来るから話は夜ね」
美和子は予備校の結果を訊くと一瞬うろたえたが、芳樹が今後すべきことを機関銃のようにまくし立てて店に出た。一方的に言われた芳樹は、美和子の期待に応えるのはかなり厳しいと感じていた。
芳樹はベッドに横たわり、美和子が風呂からあがってくるのを暗い気持ちで待っていた。〈やっぱり退職撤回は無理だよな。美和子、納得しないよな…〉
やっと美和子が風呂からあがって来た。
「ああ、いい湯だった。今日も疲れたわー。今日のお客さん、特に気遣うのよねー。…ところでお父さん、昼間の話だけど、退職撤回することできるんでしょ? …ねったら? お父さん!」
「……」
「あれ? 寝ちゃったのかしら? お父さん、起きて! 寝たふりでしょ!」
美和子は芳樹の身体を何度も揺すった。
「わかったよ。…」
芳樹がやっと口を開いた。
「だからね、退職の撤回、早速明日してよ」
「それは無理だよ」
「どうして!」
美和子は動転してしまった。
「実は、二学期始まってすぐに校長から退職について訊かれて、退職の意志は変わらないと最終確認したんだ」
「来年の三月まで、まだ先よ」
「でもだめだよ」
「じゃあ、どうする気? プータローになる気? 身体が悪いんだったらわかるけど。…私、そんなのイヤよ」
美和子は納得できなかった。〈どうして退職撤回することできないのよ。まだ先のことだというのに。…ただ頭下げればいいんじゃない。それで足りなければ土下座でも何でもすればいいのに。…〉
「まさか内定取り消しになるとはな、…正式採用でなかったしな。甘かった。…」
「とにかく落ちたんだから、もう何を言ってもしょうがないわよ。またどこか受けて絶対受かってよ!」
美和子は少し冷静になった。
「ごめん。またどこか受けてみるよ」
「ホントに頼むわよ、お父さん。しっかりしてよ。私寝るわ」
就活は振り出しに戻ってしまった。また明日からいろいろあたってみなければならない。芳樹は気が重くなってきた。
「お父さん! 何よこの手。びっくりするわよ」
突然、美和子が声をあげた。芳樹が美和子の胸を触ったのである。
「この手って、わかるだろう? 土・日のどっちかにしようねってことになってたろ。昨日してないんだからさー」
「今日は疲れているからだめ。また今度」
「今度とお化けに会ったことがないと言うぞ」
「会わなくたっていいじゃない。…それより私は寝ます。おやすみなさい。…あっ、それから、朝、勝手にしないでね!」
芳樹は諦めて寝ることにした。『朝、勝手にしないでね!』とは、以前、芳樹が勝手に自分のモノを寝ている美和子の後ろから入れたことがあったので、釘を刺したのであった。
作品名:知らぬが仏・言わぬが花 作家名:mabo