般若湯村雨(同人坩堝撫子2)
三
田舎のバスは、おんぼろ車。クラッチは滑る、ハンドルは動かない、車掌席も残っている。そこに般若の面がかかっていた。僕はその符合にいわくを感じ、彼女の背中をつついた。だが彼女はうるさそうに肩を揺すり、ガイドを投げ返してきた。ページには般若のお面が書かれていた。このバスの経路のどこかで下りると、般若湯という大きな温泉宿があるということが、文面から窺い知ることが出来た。
「どこで下りるのか、よぉーく研究して頂戴。私はもう沢山。そんな文章を読んでいると美しい日本の私が霧散してしまうわ」
僕は自分の記憶が確かだったことと、彼女の賛同を得られたこととに気を良くして、早速ガイドを熟読し、イラストマップと照会し、またガイドを深読みし、血眼になって活字を辿った。
「自尊心の回復? まさか。どちらかというと、女王様と奴隷じゃないか」
そう思いながら、僕は確かに、喜々として解読に勤しんでいたのだった。
「次は深沢・次は上沢・次は太郎丸・次は下村・次は胴尾・次は・次は・次は」
バスはどんどん進んでいく。だが地図上の僕の旅は一行に埒があかず、元来乗物に弱い僕は、すっかり気分を悪くしていた。外の景色を見ようとしたら、いつのまにか真っ暗になっている。
「まだ見つからないの? 使えないわね」
車窓は鏡になっていた。僕は彼女の叱責を甘受し、反対側の窓にうつる一組の男女を眺めた。仲むつまじい恋人のようだった。男が女の座っている座席の背もたれに額をくっつけ、女は体を捩じって男のつむじをいとおしそうに眺めている。僕はそっと自分の右手を見る。そして「つまりは、この手なんだな」などと借り物の感慨に耽ってみる。
「いい加減にしないと、車庫で夜明かしよ。もっとも車庫があるのなら、ですけどね」
彼女の口調が、語尾で微妙に変化した事に僕は気づいて、顔を上げた。目の前に彼女の眼鏡があった。青リンゴのような吐息が僕の鼻先をくすぐる。先程見ていたガラスを横目で見る。二人は軽い口づけをしている、ように見えた。その刹那だ。
「次は、下村雨」
というアナウンスが車内に響いた。咄嗟に二人はビーチフラッグスみたいに一つのボタンに突進した。彼女の爪が僕の爪を刺した。僕は勝者の痛みに酔いしれ、小さく「よしっ」とガッツポーズをしていた。
バスの速度が落ちる。前方から光が迫ってきた。杉の木立が几帳面なシルエットになってイライラと暁を刺していた。日はまだ落ちていなかった。バスはトンネルを走っていたのだ。夕日の名残は豪奢な金色だった。僕は希望を見つけたような気がした。彼女は、リュックを肩にかけて訝しげに辺りを見回している。
錆びたバス停には「下村雨」と書いてあった。
「だから、下村雨。ってことは、中村雨とか上村雨とか、村雨そのものとかがあったわけでしょう。なんで聞き逃すかな」
聞き逃したのは彼女も同じだ、とは言えなかった。僕は吐き気がするほど眺めたガイドをもう一度調べた。それは呆気なく見つかった。さらに、村雨そのものも、この少し前の地点にちゃんと記載されている。ただ、今まで通ってきたトンネルの記載は、無かった。僕は、この不信感を表情に託して地図を指さした。彼女は地図を一目見て、舌打ちした。
「もう、国境を越えてるじゃないの」
国境の長いトンネルを抜けると行き過ぎだった。地図上の村雨は、このトンネルの中にあることになるのだ。
「まさに、隠れ里ね」
彼女はトンネルを見ながら青ざめた顔でそう言った。夕闇迫る山中の長いトンネルへ、僕たちは疲れた体を引きずり、徒歩で分け入らねばならないのだ。僕も背筋がゾクゾクしてきた。
「戻るのは、嫌なんだけど、仕方がないわね」
「え? 何?」
彼女は僕の戸惑いを無視して、さっさとトンネルの暗がりに紛れていった。もちろん、僕は慌てて後を追った。
作品名:般若湯村雨(同人坩堝撫子2) 作家名:みやこたまち