般若湯村雨(同人坩堝撫子2)
ニ
『バスを下りるとひんやりとした空気に包まれる。思いっきり深呼吸。さっきまでふうふういっていた彼も、鼻の穴おおきく広げて、お・い・し・い・って笑ってる。旅行のスペシャリストを気取っている私たちには、お定まりの旅館なんてオヨビデナイ。ここはいっちょ、誰も知らない隠れ里にトリップしたいぞっ。いままでどんなガイドブックにも乗ってなかった秘湯。満点の星空の下で、彼と入る露天風呂。あ、駄目。モモンガがこっちを見てるわ……
今ではすっかり寂れた巡礼姿の人々が、切り絵みたいに通りすぎる。同じ人間とは思えない。静かで不思議な人達。彼ったら行列が行き過ぎるまで頭を下げているんだもの。臆病者ってからかったら、本気で怒って追いかけてくる。捕まえてごらんなさい! 道を外れて、私はちょうちょ。彼はヤンマ。ひらひら、すいすい。蔦やシダをかきわけて、いつの間にか一山こえちゃった』
「ちょっと、このガイド大丈夫なの?」
バスを待つ間、僕が持っていたガイドブックを走り読みしていた彼女が、げんなりした顔で僕を見る。僕は存外真面目な顔で、この本の弁明を試みる。
「ふざけてると思うでしょ。でもこういう本に案外穴場があったりするんだな。これ経験上、絶対だから。適当なコメントと、お前ら絶対、この仕事で始めて会ったばかりだろ!ていう写真が載ってるようなのは、毒にも薬にもなんないと思わない? かと言っていきなり国土地理院もハードルが高いからさ、思いっきり軟派でいっちゃってるのを探してたわけさ。普通じゃないって感じ、滲み出てるでしょ」
「頭痛がしてくるわよ。で、地図もついてないわけね」
「多分、この旅は地図なんて読めない子が、実際に遭難しながら作ってるんだと思うね。だから、たどり着かないルートが沢山載ってるし。自衛隊の訓練みたいな方式で作られたキコウ本なんだよ」
「んなわきゃ、ない」
彼女はあっさりとそう言ったが、さっと奥付に目を走らせたのを、僕は見逃さなかった。
「たしか、大きな温泉宿があるって書いてあったはずだよ」
僕はさらに彼女の注意を促そうとした。だが彼女は邪険に手を振り、また本を読みはじめた。
『旅の僧の七段越えを夜前に越せぬと覚悟せしが、小道に小僧一人座せるほどの窪みを見つけたり。体をねじいれければ僧侶の岩を突き抜けたる心地怪しと思い、数珠を千切りて辺りに乱れ飛ばしければ、そこかしこより人外の叫喚響き蹴り。僧心眼を開きて喝入れたれば、暮れ落ちし筈の日差しまだ中天にあり。小さき凹地と見えしは濛々たる白煙を吹き上げたる千尋の谷なりけり。僧、谷底に積み重なる有象無象の蠢きたるを看破し、白刃をもってそのことごとくを調伏す。人の寄らん事祈念しつ僧の白刃をつきたてるに豊かなる温泉湧き出たり。窪みたちまち湯に溢れるかと思いきや、湯の仄かの白く濁りし酒の香するを豊かに湛え、尋さ一段を上回れりと。あやかしを成敗せし白刃、銘は村雨とかや。故に、この湯を般若湯、かの地を村雨と呼ぶ。』
(四十八州酒湯伝奇 其二十八 般若湯村雨 より抄粋)
「般若。っていうと何を思い出す?」
ガイドを閉じて、彼女が尋ねた。僕が、
「桃太郎侍」
と言うと、彼女は同時に、
「萩原流行」
と言った。そして二人同時に「えーっ」と体をのけぞらした。
「般若っていったら、お面でしょ。お面っていったら桃太郎侍に決まってるでしょ」
「馬鹿ね。流行さんはお面なんて被らなくても般若なのよ。そりゃ筧利夫って線もあるけど、スケバン刑事を知ってる人なら、躊躇しないで流行さんっていうわよ」
「スケバン刑事なら、蟹江敬三さんでしょ。じん…… だよやっぱり」
「ふ…ん。一理あるわね」
意外にも彼女はあっさりと引き下がった。これまでに見知った彼女のパターンなら、あくまで流行般若説を貫くはずだ。そうあってくれなくては、またしても僕は彼女に対する足掛かりを無くすことになる。
「多分、君は桃太郎侍を知らないんだ。時代劇なんて見ないんだよね」
僕は優しくそう言った。もちろん、挑発しているのだ。そして彼女はまんまとこの挑発に載ってきた。
「私が時代劇を見ないって? 言っておくけど、私、時代劇にはちょっとうるさいわよ。隠密同心アンタッチャブルだって見てたのよ。スケバン刑事的に考えれば、じん、が基本だなって思っただけじゃないの。桃太郎侍なんて初歩よ初歩。そんなこというならあなたあれ言えるかしら? ひとぉーつってやつ」
「もちろんだよ」
僕は張り切って先を続けた。
「ひとぉーつ。人の世にはびこる悪の。ふたーぁつ。不埒な悪行三昧。みぃーっつ。醜い、」
「ハゲがある」
「よぉーっつ、横分けハゲがある。じゃなくて」
「いつつ。いつでもハゲがある」
「むっつ。無理やりハゲがある。だ・か・らぁ!」
「ななつ、ななめにハゲがある」
「やっつ。やっぱりハゲがある。或いは やけくそ」
「ここのつ、こうなりゃ」
「ここにもハゲがある」
「テン。テン。天下のぉぃ! イーナカぁーぁぁーぁッペェーっと」
「天童よしみだし…… 違うって。みぃーっつ みにくい……」
そこへバスがやって来た。彼女はリュックを背負ってさっさとバスに乗り込んでしまった。僕は続きを言ってしまいたくて仕方がない。だが、誰一人客のいないボンネットバスの、後ろ車輪の上にある座席に窮屈そうに膝を曲げて座った彼女を見た時、僕は三つめの決まり文句を忘れているらしい事に気づいた。
「まあ、いいや。大したことじゃないんだし」
僕はすごすごと彼女の後ろの席に座った。自尊心はいくらか傷ついていた。しかし、こんなことで傷つく自尊心が、未だに健在だったということの方に僕は驚いていた。
作品名:般若湯村雨(同人坩堝撫子2) 作家名:みやこたまち