私の読む「宇津保物語」第一巻 としかげの続き 1
大殿太政大臣は、昨夜、述べたような次第で愛し子の若子君が屋敷にいないと知って、行列のお供に連なった人々、若子君の兄の忠雅兵衛佐を厳しく問いただし責められて、兄の忠雅に
「すぐに、若子を捜し出さなければ、お前を子供としてはみない、どうする」
と言葉荒く責め立てられる。前駆のものたち、馬の側に従う馬副(むまぞひ)の者達には、
「仕事は剥奪するぞ、獄舎につなぐぞ」
と、きつく言われて、舎人や雑色(ざっしき)を縛り上げた。大殿は落ち着きを無くしてしまい大騒ぎされる。叱責された男どもは
「探し求めて、探し得なければ、首を差し上げます」
と申し上げて、暇を戴き十人、二十人と別れて夜の道に出て若子君探索が始まった。
兄忠雅と叔父の兵衛の中将、また他の人も三十人ぐらいの従者を従えて若子君の行かれた先を尋ねて賀茂社まで願いを込めて探し求められたところ、若子君が三条通りと京極通りが交わる辻に立っているのを兄の忠雅が見付けて、若子君に、
「なぜ、我々にこのような辛い思いをさせるのだ。殿には昨夜より若子が居ないと殿も母上も食事も通らないほど心配なさっておられる。お供の方全員を方々に向かわせられた。忠雅らも役立たず人になってしまった。見たように、みんなが酒を飲んで正気の者がいないので、若子が居ないことに気が付かず、殿がお帰りになっても君は居ないので、夜通し大騒ぎをされても落ち着かせる方法がない。殿が屋敷に在宅の時のことを、お考えなさい。大体、何処で一夜を送ったのか、どこからここまで来たのだ」
と兄の忠雅が言うと若子君は、
「皆さんが私を置き去りになさったので、雁の列から間違って列を離れた雁の気がいたしまして」
と言う、兄は笑って、
「貴方の先に立つ雁が居たでしょう。そうしたなら此処に立っていたはずである。おかしな道祖神(行く人を守る神)ですな」
と言い、
「それでも、今でも大騒ぎなさっておられるであろうお二人は」
と全員揃って屋敷に帰っていった。
若子君は道々親たちに心配をかけたと思いながら、帰宅して殿の前に現れた。兄は、
「若子君をやっと見付けました」
大臣は喜ばれる。殿の周りの男達は若子君失踪と言う大事件に遭遇して御前から放逐されそうになった人々、若子君の出現で喜び合って安堵した。父の大臣は、
「どうして、何があって一夜を開けたのだ。いつからこのような女の所へ通うことをするようになったのだ。大変に軽はずみなことである。私の心は心配でかき回された」
と言って若子君を叱責される。北の方の母親は、
「このような賀茂川の辺りは、盗人が多くて人も殺められる。それに貴方一人で立っていて、盗賊に殺されでもしたらどうなります。落ち着かない人だね。これからの宮仕えは許しません。夜歩きを覚えて逃げ隠れしようとなさるだろう。私の前にいつも居なさい」
と言われて、若子君が出仕するときは共に出仕されて片時も目を離さなかった。
若子君は昨夜の娘が哀れに思うことが頭から離れず、
「何とか連絡を取りたいものだ・・・・・・ちょっとでも行って見てあげたい」
と、周囲を見回すと厳重な警戒が敷かれているから、夜となく昼となく歎いているばかりである。
彼女の世話は自分以外にない。知らせようにも高貴な身の上であるから娘の場所が分からない。そうこうしていると大臣も兄の近衛府佐も若子君の気持ちを察して問いただされる。
「このように自分はなっている」
伝言の使者を出すことも出来ない。あの夜何かの切っ掛けで二人が身体を求め合ったことが懐かしく思われ、娘の綺麗な姿を思い出して、目に入る草や木、空を見て、若子君は別れた娘のことばかりを思い、
月見れはちヾに物こそかなしけれ
我が身ひとつの秋にはあらねど
(古今集193)
大江千里の歌のように心が砕け、心を割って話が出来る者も周囲には存在しない。ただ心に秘めて月日を過ごしていた。
そうして、若子君と身体を求め合った娘は、ただの一夜の夢のような事であったが、男女のまぐあいは結果を出す。妊娠した。
そのようなことも知らず、父や母のみが恋しく、慣れない侘び住まい、娘は若子君が別れの際に、私を一人置いて出て行く不安や心配事を細々と優しく言い置いていかれたことを思い出し、草木が春の緑から夏は濃くなり、秋は紅葉する、そうして冬になって木の葉が落ち散ってしまう。
その自然の移り変わりを眺めては寂しさが身に沁みて一人涙をこぼして変わる景色を眺めていた。そんなある日の夕暮れに雷光がするのを見て、
いなづまの影をもよそに見るものを
何にたとへんわが思ふ人
(稲妻でもその影をよそながら見る事が出来るのに、恋しいと思う方は影さえもお見せにならない。何に例えましょう)
と詠うが。誰も答えてくれない。
若子君は、娘がこのように歎いている夕暮れに、風が激しく虫の声が乱れるのを聞いて、
「ああ、私が見た賀茂川の川風がきつく吹くあの家の娘はどうしているだろう」
思いながら、
風吹けば声ふりたつる虫の音に
我も荒れたる宿をこそ思へ
と詠い、庭を眺めているうちに、十月ほど経った。時雨の空を見ていると、涙で袖が濡れてくる。若子君は少し外を見ても目はすぐに空に向かい、その空を鶴が鳴きながら渡っていった。
大空はこひしき人のかたみかは
物思うふごとにながめらるらん
(酒井人真 古今集743)
のような若子君の心中、鶴の鳴き声を聞いて悲しみが募り、
たづが音にいとヾも落つる涙かな
同じ河辺の人を見しより
かなしいこと。
独り言を言って
「どのような世になろうとも、今ひとたび逢う」
と思うのだが、夢に見ることもなくなった。月日が経つままに逢えない情けない、若子君の涙はますます激しくなり、彼女が住む京極も風が荒くなり、霜雪と降り積もる長い夜、色々なことを思い出して、涙で凍った袖を見ながら、娘は、
わが袖のとけぬ氷をみるときぞ
結びし人も有りと知らるゝ
(袖の涙が氷となって融けないのを見るとき結んだ人がいたのだと思い知られる)
などと詠って思い出にふけっていると、新年となり春が来た。
あの若子君がこの私から去るときに折られた桂の木の枝が春になって燃えるように色づいているのを見て、
忘れじと契りし枝はもえにけり
たのめし人ぞこの芽ならまし
(忘れまいと互いに言い交わして折った桂の芽は再びもえてきました。頼みにしたお方もこのように再び来てはくれないかしら)
と、思い出に浸る。
月日が経って、出産近くなるまで知らないでいたのだが、懐妊して九ヶ月になった時に娘がかって使っていた嫗(おうな)が食事を持って娘の前に現れ、不審そうに頭を傾けて、
「なんとなく変わって見えますね。貴女はもしかして最近誰かとお話なさいましたか」
「そのようなことを、近くにある蓬や葎ととは話しますがね」
媼は、
「すぐに、若子を捜し出さなければ、お前を子供としてはみない、どうする」
と言葉荒く責め立てられる。前駆のものたち、馬の側に従う馬副(むまぞひ)の者達には、
「仕事は剥奪するぞ、獄舎につなぐぞ」
と、きつく言われて、舎人や雑色(ざっしき)を縛り上げた。大殿は落ち着きを無くしてしまい大騒ぎされる。叱責された男どもは
「探し求めて、探し得なければ、首を差し上げます」
と申し上げて、暇を戴き十人、二十人と別れて夜の道に出て若子君探索が始まった。
兄忠雅と叔父の兵衛の中将、また他の人も三十人ぐらいの従者を従えて若子君の行かれた先を尋ねて賀茂社まで願いを込めて探し求められたところ、若子君が三条通りと京極通りが交わる辻に立っているのを兄の忠雅が見付けて、若子君に、
「なぜ、我々にこのような辛い思いをさせるのだ。殿には昨夜より若子が居ないと殿も母上も食事も通らないほど心配なさっておられる。お供の方全員を方々に向かわせられた。忠雅らも役立たず人になってしまった。見たように、みんなが酒を飲んで正気の者がいないので、若子が居ないことに気が付かず、殿がお帰りになっても君は居ないので、夜通し大騒ぎをされても落ち着かせる方法がない。殿が屋敷に在宅の時のことを、お考えなさい。大体、何処で一夜を送ったのか、どこからここまで来たのだ」
と兄の忠雅が言うと若子君は、
「皆さんが私を置き去りになさったので、雁の列から間違って列を離れた雁の気がいたしまして」
と言う、兄は笑って、
「貴方の先に立つ雁が居たでしょう。そうしたなら此処に立っていたはずである。おかしな道祖神(行く人を守る神)ですな」
と言い、
「それでも、今でも大騒ぎなさっておられるであろうお二人は」
と全員揃って屋敷に帰っていった。
若子君は道々親たちに心配をかけたと思いながら、帰宅して殿の前に現れた。兄は、
「若子君をやっと見付けました」
大臣は喜ばれる。殿の周りの男達は若子君失踪と言う大事件に遭遇して御前から放逐されそうになった人々、若子君の出現で喜び合って安堵した。父の大臣は、
「どうして、何があって一夜を開けたのだ。いつからこのような女の所へ通うことをするようになったのだ。大変に軽はずみなことである。私の心は心配でかき回された」
と言って若子君を叱責される。北の方の母親は、
「このような賀茂川の辺りは、盗人が多くて人も殺められる。それに貴方一人で立っていて、盗賊に殺されでもしたらどうなります。落ち着かない人だね。これからの宮仕えは許しません。夜歩きを覚えて逃げ隠れしようとなさるだろう。私の前にいつも居なさい」
と言われて、若子君が出仕するときは共に出仕されて片時も目を離さなかった。
若子君は昨夜の娘が哀れに思うことが頭から離れず、
「何とか連絡を取りたいものだ・・・・・・ちょっとでも行って見てあげたい」
と、周囲を見回すと厳重な警戒が敷かれているから、夜となく昼となく歎いているばかりである。
彼女の世話は自分以外にない。知らせようにも高貴な身の上であるから娘の場所が分からない。そうこうしていると大臣も兄の近衛府佐も若子君の気持ちを察して問いただされる。
「このように自分はなっている」
伝言の使者を出すことも出来ない。あの夜何かの切っ掛けで二人が身体を求め合ったことが懐かしく思われ、娘の綺麗な姿を思い出して、目に入る草や木、空を見て、若子君は別れた娘のことばかりを思い、
月見れはちヾに物こそかなしけれ
我が身ひとつの秋にはあらねど
(古今集193)
大江千里の歌のように心が砕け、心を割って話が出来る者も周囲には存在しない。ただ心に秘めて月日を過ごしていた。
そうして、若子君と身体を求め合った娘は、ただの一夜の夢のような事であったが、男女のまぐあいは結果を出す。妊娠した。
そのようなことも知らず、父や母のみが恋しく、慣れない侘び住まい、娘は若子君が別れの際に、私を一人置いて出て行く不安や心配事を細々と優しく言い置いていかれたことを思い出し、草木が春の緑から夏は濃くなり、秋は紅葉する、そうして冬になって木の葉が落ち散ってしまう。
その自然の移り変わりを眺めては寂しさが身に沁みて一人涙をこぼして変わる景色を眺めていた。そんなある日の夕暮れに雷光がするのを見て、
いなづまの影をもよそに見るものを
何にたとへんわが思ふ人
(稲妻でもその影をよそながら見る事が出来るのに、恋しいと思う方は影さえもお見せにならない。何に例えましょう)
と詠うが。誰も答えてくれない。
若子君は、娘がこのように歎いている夕暮れに、風が激しく虫の声が乱れるのを聞いて、
「ああ、私が見た賀茂川の川風がきつく吹くあの家の娘はどうしているだろう」
思いながら、
風吹けば声ふりたつる虫の音に
我も荒れたる宿をこそ思へ
と詠い、庭を眺めているうちに、十月ほど経った。時雨の空を見ていると、涙で袖が濡れてくる。若子君は少し外を見ても目はすぐに空に向かい、その空を鶴が鳴きながら渡っていった。
大空はこひしき人のかたみかは
物思うふごとにながめらるらん
(酒井人真 古今集743)
のような若子君の心中、鶴の鳴き声を聞いて悲しみが募り、
たづが音にいとヾも落つる涙かな
同じ河辺の人を見しより
かなしいこと。
独り言を言って
「どのような世になろうとも、今ひとたび逢う」
と思うのだが、夢に見ることもなくなった。月日が経つままに逢えない情けない、若子君の涙はますます激しくなり、彼女が住む京極も風が荒くなり、霜雪と降り積もる長い夜、色々なことを思い出して、涙で凍った袖を見ながら、娘は、
わが袖のとけぬ氷をみるときぞ
結びし人も有りと知らるゝ
(袖の涙が氷となって融けないのを見るとき結んだ人がいたのだと思い知られる)
などと詠って思い出にふけっていると、新年となり春が来た。
あの若子君がこの私から去るときに折られた桂の木の枝が春になって燃えるように色づいているのを見て、
忘れじと契りし枝はもえにけり
たのめし人ぞこの芽ならまし
(忘れまいと互いに言い交わして折った桂の芽は再びもえてきました。頼みにしたお方もこのように再び来てはくれないかしら)
と、思い出に浸る。
月日が経って、出産近くなるまで知らないでいたのだが、懐妊して九ヶ月になった時に娘がかって使っていた嫗(おうな)が食事を持って娘の前に現れ、不審そうに頭を傾けて、
「なんとなく変わって見えますね。貴女はもしかして最近誰かとお話なさいましたか」
「そのようなことを、近くにある蓬や葎ととは話しますがね」
媼は、
作品名:私の読む「宇津保物語」第一巻 としかげの続き 1 作家名:陽高慈雨