桜と老人と少女
「おじいちゃん!」
そう言って老人の元へ駆けていく少女を、私は黙ってみつめていた。
嬉しそうに大事そうに、その手には違う種類の小さな花が握られている。
あげる。
きっとそう言ったのだと思う。私には彼女の大きく元気な口が動く事しか確認できなかったが、確かにそう言った。
背筋の伸びた白髭の老人は、少し苦しそうにゆっくり屈むと、その小さな花束を受け取り皺だらけの手で少女の頭を撫でた。
それは、文字や画面の中でしか見ない、絵に描いたようなまさに幸せの光景だった。
しばらくすると、その老人と少女はどこかへ去っていってしまった。私の視線など気付かずに。
生きた数だけ線が刻まれた手と、まだ何も刻まれていない手が、一緒になって歩いている。老人と少女の間にある巨大な年数に、私は思わずため息を吐いた。
「どうしたの、こんな所で。」
サクサク、と草を踏む音がしたかと思えば、少し心配そうな顔の彼が私の元へやって来た音だった。
金髪で青系統の色がランダムに眼鏡のフレームに彩られている。両耳に3つほどピアスの穴も空いている彼は、現在美術の学校に通いながらバンドを組んでいるという。
彼もまた絵に描いたような学生なのに、何故か彼の服装だけは何の色も持っていなかった。
何故だろう。
しばらく突っ立って彼を見つめた。
そして、脳裏に浮かんだ先ほどの幸せの絵によって、私は今日祖父の葬式に来ているのだと思い出した。
「ううん、何でもない。」
彼に近づき、そっと身を寄せる。
そろそろ桜の木には新しい葉が芽吹いて、もう花の役目も終わる頃。
祖父は、縁側で桜を見ながらお団子を食べていたら、いきなり現れた犬に驚いて喉に団子を詰まらせて死んだのだと言う。
「お前の母さんが心配してたぞ。」
そっと寄りかかる私を何も言わずに支えてくれる彼に、やっぱり人間見た目じゃない、と初めて交際する事になったときに反対した友人にもう一度言ってやりたくなった。
今はまだ、家族の元へ帰る自信がなかった。祖父は今、焼かれている最中だ。よくデスクの一番下にある大きな引き出しが、人1人分くらい入る大きさになったような場所へ入れられて、焼かれいてる。
完全に骨になるまで一気に高温で焼くので時間が少し掛かるらしい。まるでどこかの料理本の、焼き方の紹介みたいだと思った。
「なぁ、戻ろう。」
そろそろ終わるんじゃないか、と彼は私の高く結った黒い髪を撫でながらそう言う。
髪や眼鏡に色がある彼とは反対に、全身黒ずくめの私。それでも、祖父は、おじいちゃんは、私が幼い頃この髪が好きだと言った。
彼ももちろん言ってくれた。けれど、嬉しさの度合いが違うのは、きっと生きた年月が私をそうさせたに違いない。
「あのね、聞いてくれる?」
突然振った私の話に、いいよと彼は即答してくれた。
まだ木にしがみ付いている桜が、ふらふらと目的もなく落ちる中で、私は彼の腕に抱かれながら話を始めた。
「小さい頃に飼ってたハムスターがいるの。それはまだ私が両親の都合で、おばあちゃんの家に住んでいる時で、名前はハムちゃんって言って女の子。
私は、小学校から帰ってくると必ずハムちゃんの世話をしてた。餌ももちろん上げてたしトイレの世話も、ケースの掃除も遊び道具のお手入れも、小さくて不器用だったけどおばあちゃんから教わりながら全部自分でやってたの。
おばあちゃんは優しくて、いつも笑顔で接してくれた。でも、おじいちゃんは昔気質の人で、全く笑わないし喋らないし、いつも自分専用のソファに座って本を読んでいたわ。」
「そうなんだ。」
「うん。それである日、私がいつものようにハムちゃんのトイレ掃除をしようとして、ハムちゃんを一旦私の足元に置いたの。
私はハムちゃんの事で頭がいっぱいで、全く気付かなかったんだけど、実はすぐそばにおばあちゃん家で飼ってる猫が居たの。・・・もう、わかるよね。」
「・・・ぱくり?」
「あっという間だった。本当に。さっきまで私の手の中で元気に動いていたハムちゃんが、いつの間にか猫のお腹の中。私は、泣きながら猫を追い回したわ。
すぐにおばあちゃんに止められたけど、悔しくて悲しくて、その日はずっと大泣きしてた。次の日何とか落ち着いて、いつものように朝ごはんを食べていたら、おじいちゃんが言ったの。」
『ハムちゃんは、天国っていう綺麗な場所に行ったんだ。だから、ハムちゃんはそこで幸せに暮らすんだ。』
「私が、でもハムちゃんに会いたいって言うと、」
『そんなに泣きそうな顔をするな。お前がいつまでもハムちゃんの事で悲しんでいると、ハムちゃんはいつまでも天国に行けんぞ。』
「天国に行けないとどうなるの、って言うと、」
『天国に行けないと、ハムちゃんはずっと苦しい思いをしたままだ。たまのお腹で、ずっと苦しい思いをしたままになるぞ。』
「それはイヤ!って叫んだわ。でもおじいちゃんは少し笑って、」
『だったら、もう泣くな。きちんとハムちゃんにバイバイしなさい。それに、いずれきっとまたハムちゃんに会えるさ。』
「ハムちゃんはいつまでもお前を見守っているって、そう言って私の頭を撫でてくれた。おじいちゃんが私の目を見て、喋って、教えて、笑って、撫でてくれた。
全部、それが初めてだった。そして最後だった。おじいちゃんの言葉を胸に、私は両親に連れられて別の場所、今の実家に暮らし始めたわ。それから何年かして、おじいちゃんが認知症になったと母が電話で知らされたらしいの。」
風が強く吹いて、彼の喉が上下するのが分かった。
「介護してるおばあちゃんが心配で、たまにおばあちゃん家に家族で行ってたんだけど、まるで別人だった。
しきりに私の名前を呼ぶから行けばお前は誰だと怒鳴られたり、ついさっきご飯を食べたはずなのにまだ食べてないって騒いだり。物忘れも酷かったし、いつも静かに本を読んでたまにおばあちゃんと会話をしてたおじいちゃんはどこにもいなかった。
だからみんな、おじいちゃん楽になってよかったねって。そう言ってたの。」
「私もそう思う。やっと楽になって、天国に行けたんだねって。たまに見せるおじいちゃんの顔が、すごく痛々しくて、だからこれでよかったんだよねって。」
「そうだな。」
「安心して、天国に行けるように、これからは祈らないと」
突然、私の視界が真っ暗になった。
どしたのだろう。少しして、ようやく彼が私を強く抱きしめている事が分かった。
「辛かったな。泣いていいぞ。」
「嫌よ。おじいちゃんが、天国に」
「行ける。行けるさ、大丈夫。でも、お前がその大きな悲しみを胸に閉じ込めたままなら、お前のじいさんはどう思う?それこそお前が心配で、天国になんか行けないぞ。」
「そんな、はず、」
「今日は、今日だけは悲しみを解放していいんだ。また明日から、元気に歩けばいい。それで、じいさんは安心して天国に行けるから。」
見てる?おじいちゃん。
私のそばに居る人は、見た目はこんなだけど、やっている事も不安な事だらけだけど、こんなに優しい人です。
本当は、もっとお話したかった。