愛されたがりや
「やっぱ、アタシ、明日帰るわ……」
そう言って、母の顔を窺(うかが)うように眺めた。
母がどんな顔をするのか見たかったのだ。
「そう、分かったわ……」
無表情の顔に、微かに翳りを見せた母。
何か言いたげな顔にも見えたが、他には何も口にせずそのまま寝室へと行ってしまった。
「翔子、いいのか?後悔するぞ」
そう言って、兄は私に憐れみの眼差しを向けた。
彼女との電話が終わって、いつの間にかリビングに来ていたらしい。
いつもならでしゃばるようにして口を挟む弟の姿は、どこにもいなかった。
兄は開けっ放しのドアから、私と母のやり取りを聞いていたのだろう。
そんな兄を尻目に、私は気のない返事をした。
「いいよ。どうせ、私はお父さんとの縁も薄いみたいだしさ……。それに、私がここにいてもいなくても同じでしょ?お母さんも、私より、お兄ちゃんの彼女を頼りにしてるみたいだしさ」
「まあな。それは否定できないな」
と言って、兄は笑った。
「笑い事じゃないわよ。これでも結構傷付いてんだからね。それに、佑斗も何かあればすぐ突っ掛かってくるし〜」
と嫌味っぽく佑斗に言うつもりが、その肝心の姿は見えない。
お風呂だろうか。単なるグチになってしまった。
「佑斗は佑斗で、淋しいんだよ。あんなんだけど、意外に繊細なところもあるんだぞ」
「何が繊細よ。ただのマザコンじゃない。みんなが甘やかすから、あんな性格になっちゃって。自立出来なかったら、お兄ちゃんが一生〜面倒見なきゃいけないんだからね」
「そう言うなよ。こう見えても、俺だって佑斗のことは心配してるんだから……」
「なら、家から追い出しなさいよ。でなきゃ、ずっとここに居座り続けるわよ」
「無理言うなよ。今追い出したら、佑斗、のたれ死んじゃうだろ?それに、佑斗までいなくなったら、母さん、淋しがるだろうし……」
と言って、兄は言葉を濁した。
「お兄ちゃんも、なんだかんだ言ったって、やっぱりお母さんと佑斗のことばっかり。私のことは、どうでもいいんだ?」
何、言ってるのだろう。
私は。
なんでこんなことを、今更口走っているのだろう。
今更。
本当に、今更。
こんなくだらないことを―――。
「お前、子供みたいなこと言うなよ」
「別に……」
柄にもなく、兄に泣き言を言ってしまったことを後悔した。
募り出した感情。
募り積もった不満。
それが、今にも溢れ出しそうになっている。
心がはちきれそうになって足掻いている。
もやもやして、悶々として、それがもどかしくて、歯痒くて、けれどどこにもやり場がなくて、身体の内側からと外側からと容赦無くぶつかってくる。
行き場を無くした感情が、いつの間にかこの身体から出て行こうとしている。
私から、私の意思とは関係なしに、ここを出て行こうとしている―――。
「兄ちゃん、風呂いいぞ〜」
間延びした顔で、弟がリビングにいた兄に声を掛けた。
弟の間抜けた声に、今の今まで溢れ出しそうになっていた感情がスッと引っ込むのだった。
私は安堵した。
どんな時でも、弟は能天気だ。
それが唯一の長所なら、物凄い強みだろう。
だって私は、その能天気な弟に助けられたのだから。
あのまま兄と向き合っていたら―――。
そう考えただけで、私はゾッとした。
兄は、分かった、と言ってお風呂へ行ってしまった。
弟は、キッチンで冷蔵庫を開けっ放しにしながら水分補給をしている。
そんな弟を見ながら、兄と見比べた。
どうしてこうも違うのか、と比べても仕方のないことなのだがやはり考えずにはいられない。
違いすぎる。
あまりにも違いすぎて、悩んでしまうのは私だけだろうか。
兄はどちらかというと父に似て真面目というか、堅物というか、面白味がない。
結婚をするなら、たぶんこんな男性がいいのだろう。
けれど、弟にはそんな要素は全くといっていいほど含まれてはいない。
どこでどう神様が間違ったのか、良いところと言えば、母親思い、というところだけ。
時々、弟のマザコンぶりを見ていて不安になる。
ちゃんと会社で働けるのか、とか、社会に馴染んでいけるのか、とか……。
姉として、色々と心配になってしまうのだ。
どうしょうもない弟だけど……。
『今、家を追い出したらのたれ死ぬだろう?』
という兄の言葉を思い出し、私は未だ冷蔵庫をクーラー代わりに涼む弟の背中を眺めた。
間違いなく、今お母さんが死んだら、コイツも死ぬな。たぶん……。