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悠里17歳

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 間が持たずにトイレに行くと言ってその場を離れたついでに各部屋を見回した。二階には寝室、ジムとして使っている部屋、納屋のようになっている部屋。綺麗に片付いているがやっぱり男の独り暮らしという感じだ。無意識にあるものを探していた。父親といっても他人の家で、隅々まで探す事はできず結局見つからない。
「ここまで来といて聞かないと後悔するぞ」
心の中の悠里が教える。私は誰もいない方向に返事をして元の部屋に戻った。
「お父さん――」
「なんだ?」
 一拍置いて口を開いた。言えばどうなるか分からない。でも言わなきゃ後悔する気持ちが勝った。
「エディ叔父さんから聞いたけどお父さんも剣道してるの?」
「――、」一瞬の間が生まれた。これが剣道なら勝負ありとわかったのは私だけでなかった。
「昔の、話だ」
 お父さんの反応がどこか素っ気ない。経験者に共通の話題を上げると普通なら共感するところなのに、この反応は、むしろ逆に感じた――。
「じゃあエディが悠里に嘘ついたってこと?」
 反応がない、三本勝負ならこれで二本取りだ。
「知ってると思うけど、悠里は今も高校で続けてるんだ――」
 そういえばまだ父が日本に住んでいた頃、稽古をしている父を見た事は無かったが、私の試合をこっそり見に来ていた事を思い出した。
いきさつはどうであれ、父が剣道を知っている事には間違いない。
「今ね、エディの道場で稽古させてもらってるの、一式も日本から持ってきた」
「そうか――」
 一瞬だけお父さんと目が合った。
「日本には道場、いっぱいあるよ。何で日本にいた時悠里に教えてくれなかったん?」
 お姉ちゃんは小さい頃、お父さんから剣道を教えてもらったことがある。私は何も教えてもらっていない。そして私だけが今もずっと続けている、お父さんはそれを知っているのに私を褒めたことも指導をしたこともない。理性が感情を止められなくなり、思い出したくない我が家の暗い時期が頭の中で強制的にフラッシュバックし、やり場のない悔しさがこみ上げてきた。
「……ずるいよ。悠里には何にも教えてくれないんだもん」
 それがワガママであることは分かっているのに私の口から思いがひとりでにこぼれ出た。言えばお父さんも気持ちを痛めることはわかっている。だけど今の私にその気持ちを止める力はなく、父の顔を見ることができなかった――。
 本当は優しいお父さん。私の記憶の中では一緒にいて楽しかったことばかりが頭にある。大好きな神戸の桜のトンネルに連れてってくれたことや、誕生日にはお姉ちゃんと一緒に大きなケーキを作ってくれた。しかし、それは私が7歳の頃までの話だ。それからお母さんとすれ違う事が多くなり、結局両親は別れた。
 わがままだけど自分の基準では満足するには到底至っていない。それより長い間接しているきょうだいに嫉妬している今の自分が許せず、悔しいのか腹が立つのか分からずに、眼鏡を掛けているのに視点が潤んでぼやけている。
「悠里――」
 せっかくここまで来て会えたのに、わがままばかりが前に出る。お父さんの表情は見なくてもわかる。実の娘なのに言葉がうまく通じずに困っていた、あの時の顔をしているはずだ。結局成長していない自分が情けなくて握った拳に力が入る。
「日本は、私にとっては『異郷』でしかなかったんだ――」
 気まずい沈黙、この鍔迫り合いを破ったのはお父さんの方だ。それも小さい声で静かに。
「私も、日本人なんだ――。だが、日本人にはなれなかった」
「お父さん……」
 父は多くを語らない。しかしその一言だけで我が家の暗い過去が瞬時に繋がった。それだけでお父さんの言いたいことはわかったし、それ以上の言葉は必要ないとさえ感じた。

 私に返しの一手はなかった――。

 お父さんは日本の社会で日本人になろうと努力した、そして一度は日本国籍を得た。だけど社会が父を外国人とみなした。皮肉なことにこの国では父を日本人として見ている。そんなどっち付かずのそれぞれの社会で悩み、家庭でも上手く行かなくなり結論としてここへ帰ってしまったのだ。
 合衆国では日本人、でも日本では外国人――
 この微妙な違いが父には辛かったのだ。日本の社会では外国人はあまりに寛容ではないということだ。その上父は外国人といっても半分は日本人なのに同じように扱ってもらえないと感じたのが父の心にあるのが分かった。一緒に住んでいた頃、日々の生活が窮屈そうに見えたのは間違いでなかったことが今確認できたような気がした。もともと外国人の集まりである合衆国のようにいかなかったのだ。
 悪い言い方だけど、自身が定義する「日本人」になれずに家庭を捨てて国に帰ってしまったお父さん。そこに横たわっている、以前は身勝手に見えた得体の知れない苦悩のような何かの正体が今ならわかる――。
 私がこの国について思うように、父にとって日本という国は故国であるが、それは異郷でしかなかったのだ。父と娘という一番近い間柄なのに私たちは相容れない部分があることに胸が締め付けられるような苦しさを感じずにはいられなかった。
「すまんな、悠里」
 苦しいのは私より父の方だ。どこにいようが父は半分は日本人であることは変わらない。離婚してアメリカに帰ることでお父さん自身についての問題は棚上げされたままだ。というより、これは解決することなのだろうか。
 
   一人で悩んだって解決しない
   自分で自分は見られない
   大切な人なら気づいているよ
   救われるのは恥ずかしい事じゃない
   強がったって苦しいだけ
   あたしも守られてここまで来れた

 心の中の悠里が今表面にいるYuriに問題を投げ掛けた。自分の書いた詞だけに一瞬にして私の中で広まった。
「でも私に出来ることって、何だろう」
と言い終わらないうちに一つだけ雷光のようにひらめいた。これが正解なのかわからない。だけど真っ先にひらめいた事は今の自分が出来る一番のことであるのは自分の経験が教えている。やらずの後悔は一生モノだ――、
「お父さん――」
 私は父の両腕を掴んだ。もう還暦近いのに昔と変わらない、しっかりとした腕をしている。
「一つだけでいいから悠里のお願いを聞いて欲しい」
 お父さんは少し首を傾げた。返事はなかったけど顔では承諾している。
「悠里と剣道で勝負してよ」
「おいおい、何を言い出すんだ」
「あたしが勝ったら、お父さんを日本に連れていく」
「どういうことだ?」
 私はお父さんから手を離した。
「英語じゃ上手く説明できない――、けど……」いつの間にか言葉が日本語に戻っていた「悠里もそうやけどお父さん、日本人とアメリカ人との間で苦しんでる、だから、だから……」
ひと呼吸おいた。
「あたしが引導を下す」
 もうこの時自分が何を言っているのか何がしたいのか訳がわからなかった。
「日本が住みづらいところならそれでいい。お父さんがこっちに住む事を否定するんじゃない。だけど、日本人であることを諦めないで欲しい」
「私が勝ったらどうするんだ?」
 この時、お父さんは私の誘いに乗って来たと確信した。
作品名:悠里17歳 作家名:八馬八朔