悠里17歳
定刻通り、飛行機はアメリカに向けて飛んだ。
私が座るのは後列の窓際で、窓からは雲に紛れた向こうに小さくなってゆく日本の陸地と、右前方には大きな翼が見える。思った以上に翼が揺れているので壊れやしないかと不安になると右隣に座るお兄ちゃんに聞くと大笑いされた。
ほとんど初めての外国。飛行機の中でも雰囲気は十分外国である。乗客の日本語は聞こえないし、アナウンスの日本語も不安なのか、日本人には聞きづらい話し方だ。食事を持ってきてくれた日本人の名前の名札を付けたCAに日本語で質問したところ、全くちんぷんかんぷんな答えが返ってきた。
「見た目や名前が日本人でもそんな人はいっぱいいるさ」お兄ちゃんは笑いながら答えた「俺自身も小さい時そうやったよ」
お兄ちゃんはきょうだいの中では唯一のアメリカ生まれで、初めて覚えた言葉は英語だ。
「日本語分かる人いるのかな?」
「乗客の中にはそりゃいるだろう、でもクルーはどうだろうね?母さんみたいなCAいてもええんやけど」
「お兄ちゃんは不安とちゃうの?」
「俺か?ああ、慣れたよ、日本語のない環境は……」
「ホンマにどこへも行かんとってよ」
「は……、はぁ。そりゃ行かんよ、飛行機の中やし――」
私は無意識にお兄ちゃんの腕をつかむと冷たい顔で笑っている顔が見えた。厳密にいうと自分自身もこの乗客の大多数と同じ「外国人」に入るのに、とにかく心細い。
「シンコンリョコウ、デスカ?」
お兄ちゃんの隣の乗客が私たちに話し掛けてきた。聞いたことがない発音だったが一応英語だ、否、英語だったと思う。私はビックリして訳もわからず愛想笑いしかできなかった。
「きょうだいですよ。カリフォルニアにいる親戚を訪ねるんです」
私に代わってお兄ちゃんが変わりに答えてくれた。内容はそれで大体わかった。
「そうかい、てっきりカップルと思ったよ」
「そうかな?こいつまだガキだよ」
「お兄ちゃん!」
「ははは、きょうだい仲が良いのはいいことだ」
一人膨れた私を無視して二人が笑う。というより笑われているようで少し悔しい。
「さっきの英語、全然聞き取れなかった……」
話が途切れ、私はさっきの会話が最初わからなかったことを漏らした。
「無理ないさ、あのおっちゃんも英語が母語でないもん」
小さい頃は家の中で一人だけ英語がわからずコンプレックスに思っていた自分、だけどそれでも諦めずにきょうだいに教えてもらい、日本国内では「理解ができる」レベルにあると思うところまで来た。しかし飛行機で聞いたいわゆる生の英語がこれだ。現実を知って元気が無くなってきた。
一方で、お兄ちゃんはあれだけの会話で話し手の母語がわかるようだ。
「悠里も、アメリカでいろんな英語を聞くといい。悠里くらい話せたら意思の疎通は出来る、自信もってわかるまで聞けばいい。だけどアメリカには悠里よりも英語がわからない人はいっぱいいる」
「ホントに?」
私の中では、アメリカという国は英語が公用語であると思っているし、それを否定する人など聞いたことがない。しかし、さっきのやり取りを見てると、それも大袈裟な表現ではなさそうだ。
「行きゃあ、わかるよ」お兄ちゃんは眼鏡を外した「自分で見に行くんでしょ?自分のもうひとつの祖国を」
「うん……」
「だったら俺から多くを言わない方がいい、先入観は要らん――」
お兄ちゃんは私の知らないことにはいつもヒントはくれるけど、確認は自分でしなさいと言う。いつものことだ、そうして引っ込み思案の私に行動を促す。
「長いよ、着くまで。時差ぼけ(ジェット・ラグ)ならんように今は寝てる方がいい」
そう言いながらお兄ちゃんは私の顔を見たあと、毛布にくるまりアイマスクを目に当てた。寝る時のいつもの仕草だ。そういやお兄ちゃんがまだ神戸に住んでいた頃、二段ベッドの下段でこうして寝るのを思い出し懐かしくなった。
エンジンがごうごうと音を立てて飛行機は東へ飛び続ける。食事が片付けられると機内の電気は消され、就寝時間となるようだ。現在の日本時間、目的地の時間、そして到着までの所要時間が標示されている。日本時間で考えればまだ宵の時間だが、現地では夜明け前くらいになる。
周りを見たら、乗客はとにかく寝ている。もしくは椅子で横になっている。私も乗客に合わせて目をつむってみるがなかなか寝られない。飛行機慣れしているのか、もう既に眠っている兄の寝顔をもう一度見た。