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私の読む「枕草子」 278段 積善寺

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【二七八】この段は、枕草子の中で最も長文の「積善寺(さくぜんじ・しゃくぜんじ)供養」の章に当たるので纏めることにしました。


【二七八】
関白藤原道隆殿、正暦五年二月廿一日に、
道隆の父親の兼家が邸宅であった二条京極第を寺院に改めて法興院と称したその境内に、道隆は積善寺(さくぜんじ)を建立した。その御堂で、大蔵経ともいい、釈迦の説いた一切の経文に後人が注疏を加えた「一切経」を書写して奉納する法会を催した。道隆の妹で円融天皇の女御、一条天皇の母親の詮子女院もご臨席なさるので、二月一日に中宮は、正暦三年十一月道隆が中宮のために自邸の北隣に造営した二条宮へお出でになる。

その夜自分は眠たくて寝てしまい何も見ていない。
翌朝、日が麗らかに差してきた頃に起き出して新造の宮を見ると、白く美しく築造されて御簾に始まってその他の物昨日に変えて整えたようである。室内の御設備は、獅子でも狛犬でも主上と后の御帳台に限りその前に据える置物がいつの間に据えられたのかと面白い。

一丈ばかりの桜の木が綺麗に咲き誇っているのを見て、階段のそばにあるのでこんなに早く咲いたのかな、今は梅の盛りであるのに
と、よく見てみると造花であった。花の香りやその他本物にそっくりである。細工が細かくて作るのに大変であったろう。一雨降ると萎んで消えてしまうのが惜しい。

庭内の小家は沢山あるのを新しく造られ、邸内の木立はまだ良く整備されていないので見所がない。ただ、建物の様子だげは親しみがあって風流だ。

殿(関白道隆)がおいでになった。薄墨色の青味がかった固紋の指貫、桜の直衣に紅の衣三つばかりを直衣に重ねて召しておられる。出袿をなさっていない。

中宮をはじめとして女の方々は、紅梅の濃いい薄い織物、固紋や無紋など、自慢の物を着用されておられるので、輝いて見える。唐衣は萌葱色、表白・裏青の柳襲、紅梅などを召されている。

殿は中宮のお側に坐られて話などなさっておられる。中宮の御応答の素晴らしさを、里に下っている人などに僅かでも見せたいと思って拝する。

殿は女房達をずらりと見渡されて、
「宮さまは一体何をお考えなのでしょうか。大勢美人達を並べ据えて御覧になるとは羨しい。一人として不器量者はいませんな。これが皆相当な家の令嬢方ですから。ああ大したものだ、十分御ひいきの上御奉公させて下さいますよう。それにしても皆さん、この宮様のお心をどうお量りして、こうも大勢参集されたのですかどれ程卑しく物惜しみなさる宮様だといって、わたしは宮様御誕生以来非常にお仕えしましたのに、まだお下がりの着物一枚頂いたことがありません。何でかげ口など申しましょう」
と、仰られるのが可笑しいので、笑うと、
「本当のことだぞ、馬鹿だと思ってそう笑っておりなさるのがきまり悪い」

 などと仰っているところに、内裏より式部の丞則理が参上してきた。持参した主上より中宮宛てのお手紙は、道隆の嗣子伊周大納言が受け取って関白道隆が文箱の紐を解いて、
「拝見したいお手紙ですな。お許しが有れば
、開いて読んでみたい」
 とは言っても、
「宮様がはらはらしておいでらしい、勿体なくもあるし」
 と中宮にお渡しになるのを、中宮がお手にとられてもすぐに開こうとはしないで大事に手にお持ちになっておられる。そのお心遣いは稀に見るご立派さだ。

御簾の中から女房が式部丞への敷物を差し出して三四人が几帳の許に座っていた。道隆が、
「あちらへ下って禄の指図をいたしましょう」
と言って、中宮から離れられると、中宮は文を開いてお読みになった。

ご返事は紅梅の薄い紙に書かれるが、その紙の色がお召物の同じ色に映り合っている、それでもこれ程に推量申しあげる人は他にはないだろうと思うと残念だ。今日の禄は、格別にというので関白のお手許からお出しになる。禄として女の装束に紅梅の細長を添えれれた。料理が有ればお酒をと思うけれど式部丞は、
「今日は大切な行事を担当するお役がございます。どうか貴方様御容赦を」
と、大納言に申して帰っていった。

道隆の姫君達は綺麗に化粧をして、紅梅の衣はいずれ劣らずに美しいのを着ておられるが、道隆の第三女で敦道親王(冷泉天皇の皇子)の北の方は、四女の御匣(みくしげ)殿、二女の中姫(淑景舎原子)より大きくお見えになって、奥様など申しあげてもよさそうだ。

道隆の北の方貴子様参上された。几帳を引き寄せて、新参の女房達には顔をお見せにならないので、私も新参者故気づまりな感じがする。


藤原兼家 【ふじわらのかねいえ】
生年: 延長7 (929)
 没年: 正暦1.7.2 (990.7.26)
 平安中期の公卿。東三条院法興院と称される。法号は如実。右大臣師輔と藤原経邦の娘盛子の3男。官位が上であったことで実兄兼通の恨みを買い、兄の在世中は暗い日々を送った。兼通のはからいで関白にされた従兄弟の藤原頼忠は同情を寄せ、天元1(978)年右大臣に進めた。その後、兼家は花山天皇を出家に誘い込み、円融天皇女御であった娘詮子が生んだ東宮懐仁親王の即位(7歳、のちの一条天皇)を寛和2(986)年に実現させ、頼忠にかわり外祖父として待望の摂政、氏長者となり,直後に右大臣を辞した。ここに摂関は大臣の兼職という従来の慣例が破られ、摂政の力が強大となる道を開いた。東宮には娘の超子が生んだ冷泉天皇皇子の居貞親王(三条天皇)がなった。また子息たちの昇進を強引に行い、やがて子の道長のとき全盛期を迎えることになる。兼家は摂政にあること4年余で永祚1(989)年太政大臣、翌年関白になると出家し、関白を子の道隆に譲った。豪邸東三条第の西対を清涼殿造りにして生活したことから身分をわきまえない行動と非難されたという。ほかに二条京極第を営み、その新造の際の宴席で源頼光が馬30頭を贈った話は有名である。この邸宅は出家に当たって法興院となった。道長らの母となった時姫をはじめ9人の妻がいたことが、妻のひとり、道綱の母の手記『蜻蛉日記』によって知られる。(朧谷寿)(ネット コトバンク)


 女房達は寄り集って当日の服装や扇などのことを相談しているのもいる。また、お互いの競う気持ちを表には出さないで、
「何で私など。ただありあわせのままですわ」
などと言って、
「またいつもの通り、あなたはまあ」
と、憎まれる者もいる。夜分は里に下がる女房が多いが、こんな場合のことなので、おひきとされない。

関白の北の方貴子は毎日お見えになり、夜もお帰りにならない。姫君方もお帰りにならないので中宮のお側が人少なくならなくて良い。主上のお使は毎日参上する。

 お庭の桜は(造花なので)露にも色つやはまさらず、日に当たって萎み、汚くなるだけでも惜しいのに、雨が夜降った翌朝は全く見るかげもない。少し早起きして、
「泣いて別れた顔よりも見劣りがする」
桜花露に濡れたる顔見れば
    泣きて別れし人ぞ恋しき
           ( 拾遺和歌集302)
 の歌ではないが独り言を言ったのを聞きとがめられて、
「そういえば雨が降っているようでしたよ。どうしたかしら」
 と中宮が目を覚まされる頃、御殿の方から、