私の読む「枕草子」 25段ー30段
【二五】
世の中に調和をしないものは。
昼閒にやたらに吠える犬。春の網代、網代は冬のものである。三月四月に紅梅襲(表紅梅、裏蘇枋など)の下着、十一月の五節から二月頃までの間に着る。牛が死んでしまった後の牛飼い。
出産した稚児が死んでしまった産屋。炭火を入れない炭櫃(すびつ)(料理用の地火爐(ぢくわろ))。明経・文章・明法・算等の諸道の博士が続けて女子をもうけること、世襲であるから女子には資格が無い。方違で行ったところ「あるじまうけ」すなわち饗応をしない家、まして立春・立夏・立秋・立冬の節分の時の方違であればなおさらのことである。
地方から送られてきた文に贈物の無いとき。京から送る文もおなじことであるが、京からの文には都で見たい聞きたい事をかき集め、都で起こった事件などを書き連ねてあれば大変宜しい。
文の受け取り人に気を入れて綺麗に認めた文を使いの者に持って行かせ、使いの者が返事を何時持って帰ってくるのか、間もなく帰ってくるだろう、遅いではないかと待っている。先刻使いに持たせた此方の文は立文で送ったその文が嫌に膨らみ汚れたようで、封じ目に引いた墨などが手ずれで消えて、
「いらっしゃりませんでした」
または、
「物忌みのさなかで受け取られません」
などと言って帰ってくる、大変淋しく受け入れ難い。
また、此方に必ず訪問されると車を出してお迎えに行く、その車が帰ってくる音がする、来訪されたとお迎えに出ると、車は車庫に引き入れられて、轅(ながえ)が、ぽん、と外され、
「どうしたのだ」
「本日は他所に出掛けられまして、お留守でしたから此方には来られません」
と吐き捨てるように言うと、牛飼い童は牛を引いて帰って行った。
また、婿殿が通って来ぬようになったのは普通では無い。然るべき身分で宮仕している女にとられて恥ずべき事だとは思うがいかにも面白くない。稚児の乳母がついちょっと、といって退出したその間、とにかく慰めて「早く来てくれ」
と言ってやると、
「今夜はとても行かれません」
と返事を寄越した時は尋常なことでは無く、憎たらしいとどうしようも無い。彼女を迎える男はどんな男であろうか。
待っている女の所に夜更けてからそっと門を叩く音、胸がすこしどきりとして小者を迎えに出してどなたかと確かめさすと、別の縁もないつまらぬ男が名前を告げるのは、面白くないどころではない、愚かしいことである。
怨霊を降し調伏しようと、いかにも分かったような顔をして修験者の持つ具の独鈷(どこ)や数珠を持って「よりまし(憑坐)」と称する童女に持たせて、蝉の鳴くような声を絞り出して誦していたけれども調伏されそうにもない。調伏は鬼神が憑坐に乗り移って病悩の由来や物の祟りなどを口走るので、それによって一層適切な祈祷をし、物の怪を調伏するのであるが、一向に効き目が無い。修験者と憑坐達一カ所に集まって懸命に念ずるが、男女集まった人々が怪しみだしたので、刻限まで誦経するが効果が無い、修験者は憑坐に
「一向護法が乗り移らぬ。立ちなさい」
と言って、数珠を持ち直して
「効験が無い」
と頭をしゃくりあげてあくびをして横になってしまう、もの凄い睡魔に襲われてきたときに、それほど熱心な信者でも無い人が揺り起こして文句を言う、こんなのは大変情けないことである。
徐目に職を得なかった人の家人。今年は絶対に任官出来るとその筋の人から内緒で聞いて、以前奉公していた者達で今は散りじりになっているのや、田舎めいた所に住む者達などの元の使用人達が主家に集まってきて出入りする車も忙しく挨拶に来る。我も我もと饗応に預かって食べて飲んで大騒ぎしていたのであるが、除目がすんでしまった明け方には門を叩く音は全くなくて、可笑しな事もあると耳をそばだてて聞いていると、徐目に参列していた公卿達が先駆けの者を走らせて家に帰る音ばかりが聞こえてきた。昨夜の宵口から寒さに震えて徐目の結果を聞いてくるようにと居続けた下働きの男が貧相な姿で近づいてくるのに主人の側近の者達はとても、どうだったと聞く勇気さえ出ない。他から来た男達が、
「殿は如何な職に就かれたか」
と、問いかけると、
「前の何々の守ですよ」
と答える。主人の任官を心底当てにしていた者はたいそう悲観している。日が登ると一杯に集まった人達が一人二人とそっと帰って行った。古参の者達でそうも見捨てて行かれない者は、来年国司の交替があるはずの国々を、指折り数えなどして偉そうに歩き回るさま、これも大変侘びしく凄まじいものである。
紅梅 (こうばい)
表は紅、裏は紫または蘇芳。十一月五節より、二月頃まで。
独鈷(とっこ) 〔トク‐〕 【▽独×鈷/▽独古/▽独股】《「どっこ」とも》
1 密教で用いる法具、金剛杵(こんごうしょ) の一種。鉄製または銅製で、両端がとがった短い棒状のもの。独鈷杵(とっこしょ)。
2 縦にに模した形を連ねて、縞状に織り出した織物。また、その模様。主に帯地で用いる。
巧く詠めたと思う歌をある人に送るが、返事が無い。恋人の場合は人目もあることだからやむを得ない、しかしそれにしても、折ふし風情のある歌などに返事がないのは幻滅というものだ。また今評判の方に時代からとり残された旧人が、退屈で暇の多い自分の日常から、昔式の格別とりえもない歌を詠んでよこした。晴れの席に出席用の檜扇を大事だと思って、その方面に心得があると聞いている人に預けたところ、その晴れの日になって思いがけない絵など描いて送り返してきた。
出産の祝に親族知友から衣類や食物の祝い品を贈る産養(うぶやしない)・昔旅行に立つ人の馬の鼻を旅立つ方に向けて別れを告げ道中の安全を祈った。転じて別れに際し物品を贈ることをいう。餞別(むまのはなむけ)
。そのような使いの者に労をねぎらうための
当座の褒美や祝儀(大抵は巻絹を用いる)である録(ろく)を渡さない。
薬玉。これを身につけ、柱や簾にかけると邪気をはらうと信じられ、麝香・沈香などの薬を玉にして錦の袋に入れ菖蒲や艾(よもぎ)などを結び五色の糸の長いのを結び下げたもの。卯槌。正月上の卯の日に用いる。桃の木を長さ三寸広さ一寸くらいに切り、五尺程の五色の糸を垂らす。これを持参する使者には必ず録を与え無ければならない。思わぬ物を得たからには効果があると思いなさい。使者が必ず祝儀が出るに違いない用件だと思い、胸をときめかせ訪れてきたときは、その使者の気持ちは凄まじいものであるよ。
婿を迎えて四五年になるのに一向に産屋が利用されない。その家も気持ちが良くない。
大きくなった子供が大勢、悪くすると、孫達が這いずり回り歩き回るのが当たり前の親たちが、昼寝をしている。身の程知らぬ子供でさえも親が昼寝をしているのは頼りがいがなく、凄まじい光景であるというもの。寝起きして湯を浴びている、本当に腹立たしい、
十二月の大晦日近くの長雨は、あと一日という時に精進を怠ける「一日ばかりの精進解斉」一年を送って最後だというのに長雨、言葉通りである。
【二六】
自然に心が緩むもの。精進の日のお勤め。
怠けるわけにゆかないのでかえって心がゆるむ。遠きいそぎ、当日まで程遠いことの支度
世の中に調和をしないものは。
昼閒にやたらに吠える犬。春の網代、網代は冬のものである。三月四月に紅梅襲(表紅梅、裏蘇枋など)の下着、十一月の五節から二月頃までの間に着る。牛が死んでしまった後の牛飼い。
出産した稚児が死んでしまった産屋。炭火を入れない炭櫃(すびつ)(料理用の地火爐(ぢくわろ))。明経・文章・明法・算等の諸道の博士が続けて女子をもうけること、世襲であるから女子には資格が無い。方違で行ったところ「あるじまうけ」すなわち饗応をしない家、まして立春・立夏・立秋・立冬の節分の時の方違であればなおさらのことである。
地方から送られてきた文に贈物の無いとき。京から送る文もおなじことであるが、京からの文には都で見たい聞きたい事をかき集め、都で起こった事件などを書き連ねてあれば大変宜しい。
文の受け取り人に気を入れて綺麗に認めた文を使いの者に持って行かせ、使いの者が返事を何時持って帰ってくるのか、間もなく帰ってくるだろう、遅いではないかと待っている。先刻使いに持たせた此方の文は立文で送ったその文が嫌に膨らみ汚れたようで、封じ目に引いた墨などが手ずれで消えて、
「いらっしゃりませんでした」
または、
「物忌みのさなかで受け取られません」
などと言って帰ってくる、大変淋しく受け入れ難い。
また、此方に必ず訪問されると車を出してお迎えに行く、その車が帰ってくる音がする、来訪されたとお迎えに出ると、車は車庫に引き入れられて、轅(ながえ)が、ぽん、と外され、
「どうしたのだ」
「本日は他所に出掛けられまして、お留守でしたから此方には来られません」
と吐き捨てるように言うと、牛飼い童は牛を引いて帰って行った。
また、婿殿が通って来ぬようになったのは普通では無い。然るべき身分で宮仕している女にとられて恥ずべき事だとは思うがいかにも面白くない。稚児の乳母がついちょっと、といって退出したその間、とにかく慰めて「早く来てくれ」
と言ってやると、
「今夜はとても行かれません」
と返事を寄越した時は尋常なことでは無く、憎たらしいとどうしようも無い。彼女を迎える男はどんな男であろうか。
待っている女の所に夜更けてからそっと門を叩く音、胸がすこしどきりとして小者を迎えに出してどなたかと確かめさすと、別の縁もないつまらぬ男が名前を告げるのは、面白くないどころではない、愚かしいことである。
怨霊を降し調伏しようと、いかにも分かったような顔をして修験者の持つ具の独鈷(どこ)や数珠を持って「よりまし(憑坐)」と称する童女に持たせて、蝉の鳴くような声を絞り出して誦していたけれども調伏されそうにもない。調伏は鬼神が憑坐に乗り移って病悩の由来や物の祟りなどを口走るので、それによって一層適切な祈祷をし、物の怪を調伏するのであるが、一向に効き目が無い。修験者と憑坐達一カ所に集まって懸命に念ずるが、男女集まった人々が怪しみだしたので、刻限まで誦経するが効果が無い、修験者は憑坐に
「一向護法が乗り移らぬ。立ちなさい」
と言って、数珠を持ち直して
「効験が無い」
と頭をしゃくりあげてあくびをして横になってしまう、もの凄い睡魔に襲われてきたときに、それほど熱心な信者でも無い人が揺り起こして文句を言う、こんなのは大変情けないことである。
徐目に職を得なかった人の家人。今年は絶対に任官出来るとその筋の人から内緒で聞いて、以前奉公していた者達で今は散りじりになっているのや、田舎めいた所に住む者達などの元の使用人達が主家に集まってきて出入りする車も忙しく挨拶に来る。我も我もと饗応に預かって食べて飲んで大騒ぎしていたのであるが、除目がすんでしまった明け方には門を叩く音は全くなくて、可笑しな事もあると耳をそばだてて聞いていると、徐目に参列していた公卿達が先駆けの者を走らせて家に帰る音ばかりが聞こえてきた。昨夜の宵口から寒さに震えて徐目の結果を聞いてくるようにと居続けた下働きの男が貧相な姿で近づいてくるのに主人の側近の者達はとても、どうだったと聞く勇気さえ出ない。他から来た男達が、
「殿は如何な職に就かれたか」
と、問いかけると、
「前の何々の守ですよ」
と答える。主人の任官を心底当てにしていた者はたいそう悲観している。日が登ると一杯に集まった人達が一人二人とそっと帰って行った。古参の者達でそうも見捨てて行かれない者は、来年国司の交替があるはずの国々を、指折り数えなどして偉そうに歩き回るさま、これも大変侘びしく凄まじいものである。
紅梅 (こうばい)
表は紅、裏は紫または蘇芳。十一月五節より、二月頃まで。
独鈷(とっこ) 〔トク‐〕 【▽独×鈷/▽独古/▽独股】《「どっこ」とも》
1 密教で用いる法具、金剛杵(こんごうしょ) の一種。鉄製または銅製で、両端がとがった短い棒状のもの。独鈷杵(とっこしょ)。
2 縦にに模した形を連ねて、縞状に織り出した織物。また、その模様。主に帯地で用いる。
巧く詠めたと思う歌をある人に送るが、返事が無い。恋人の場合は人目もあることだからやむを得ない、しかしそれにしても、折ふし風情のある歌などに返事がないのは幻滅というものだ。また今評判の方に時代からとり残された旧人が、退屈で暇の多い自分の日常から、昔式の格別とりえもない歌を詠んでよこした。晴れの席に出席用の檜扇を大事だと思って、その方面に心得があると聞いている人に預けたところ、その晴れの日になって思いがけない絵など描いて送り返してきた。
出産の祝に親族知友から衣類や食物の祝い品を贈る産養(うぶやしない)・昔旅行に立つ人の馬の鼻を旅立つ方に向けて別れを告げ道中の安全を祈った。転じて別れに際し物品を贈ることをいう。餞別(むまのはなむけ)
。そのような使いの者に労をねぎらうための
当座の褒美や祝儀(大抵は巻絹を用いる)である録(ろく)を渡さない。
薬玉。これを身につけ、柱や簾にかけると邪気をはらうと信じられ、麝香・沈香などの薬を玉にして錦の袋に入れ菖蒲や艾(よもぎ)などを結び五色の糸の長いのを結び下げたもの。卯槌。正月上の卯の日に用いる。桃の木を長さ三寸広さ一寸くらいに切り、五尺程の五色の糸を垂らす。これを持参する使者には必ず録を与え無ければならない。思わぬ物を得たからには効果があると思いなさい。使者が必ず祝儀が出るに違いない用件だと思い、胸をときめかせ訪れてきたときは、その使者の気持ちは凄まじいものであるよ。
婿を迎えて四五年になるのに一向に産屋が利用されない。その家も気持ちが良くない。
大きくなった子供が大勢、悪くすると、孫達が這いずり回り歩き回るのが当たり前の親たちが、昼寝をしている。身の程知らぬ子供でさえも親が昼寝をしているのは頼りがいがなく、凄まじい光景であるというもの。寝起きして湯を浴びている、本当に腹立たしい、
十二月の大晦日近くの長雨は、あと一日という時に精進を怠ける「一日ばかりの精進解斉」一年を送って最後だというのに長雨、言葉通りである。
【二六】
自然に心が緩むもの。精進の日のお勤め。
怠けるわけにゆかないのでかえって心がゆるむ。遠きいそぎ、当日まで程遠いことの支度
作品名:私の読む「枕草子」 25段ー30段 作家名:陽高慈雨