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漢字一文字の旅  紫式部市民文化特別賞受賞作品

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27―5 【八】

 【八】、左右にものが分かれる形だそうな。算木でこの形は数の「やつ」を表す。
 【八】は「末広がり」で、幸運の字。
 車のナンバープレートも「8」が続けば抽選でとなる。また【八】には八百万の神のように、数多いという意味も含まれる。

 大河ドラマ「八重の桜」、それは新島八重の物語だ。
 八重は弘化2年(1845年)に、会津藩の砲術師範の山本権八の娘として生まれ、昭和7年(1932年)まで87年間の動乱の生涯を生きる。

 明治元年(1868年)、京都鳥羽伏見で戊辰(ぼしん)戦争が勃発する。
 これで弟の三郎は落命し、兄の覚馬は政府軍の捕虜となってしまう。そして三郎の衣服のみが会津に送られてくる。

 政府軍が会津へと攻め上がってきた。
 八重は断髪し、そして弟の衣装を身に纏い、七装式のスペンサー銃を担ぎ、鶴ヶ城に立てこもった。
 そして籠城戦で男たちとともに戦うが、明治元年の9月22日、会津藩は政府軍に降伏。この時、23歳の八重は鶴ヶ城三の丸の雑物蔵に和歌を刻んだ。
 『明日の夜は 何国の誰か ながむらん なれし御城に 残す月影』
 あすのよは いづこのだれか ながむらん なれしみしろに のこすつきかげ

 その後、明治4年(1871年)、兄の山本覚馬を頼って上洛する。そして京都女紅場(府立第一高女)の教道試補となる。
 それから兄を通して同志社を創設したクリスチャン新島襄と巡り会い、明治9年(1876年)に31歳で再婚する。京都初の日本人同士のキリスト教式の結婚式だった。

 男勝りの八重は新島襄の同志社の運営に助言をし、またかしづかず、西洋慣習に慣れた夫とは似合いの夫婦だったとか。
 新島襄は八重のことをアメリカの友人にこう評した。
 「彼女は見た目は決して美しくはありません。ただ、生き方がハンサムなのです。私にはそれで十分です」と。

 その後、新島襄は46才で逝き、八重は日本のナイチンゲールとして日本赤十字社で活動し、87歳でその生涯を閉じる。

 京都岡崎に光明寺という寺がある。そこは京都守護職を務めた会津藩主・松平容保(まつだいらかたもり)が本陣を構えた場所。
 そこには境内の会津藩墓地で撮影した八重の写真がある。87歳の八重が穏やかな表情で写っている。
 また鶴ヶ城落城時に刻んだ和歌を写した八重直筆の書が残されてある。それは達筆で驚くものだ。

 八重には悪妻、烈婦、元祖ハンサムウーマンと様々な評があった。
 まさにそれこそが【八】、末広がりで様々、【八】重の生き方そのものだったのだろう。