漢字一文字の旅 紫式部市民文化特別賞受賞作品
23―5 【静】
【静】、左の「青」は青色の顔料で、穀物の虫の害を防ぐ。これにより豊作となることから、実りを願うこと。
これにより心は安らかとなり、ここから「しずか」の意味になったとか。
【静】とは、まさに心静まることなのだ。
しかし、原則通りに行かないのが世の常だ。
平安時代のヒロイン・静御前(しずかごぜん)、その生涯は決して穏やかなものではなかった。
1184年1月20日、源義経26歳は兄・頼朝の命により、宇治川より京に攻め入った。そして木曾義仲31歳を討つ。そこから騎虎(きこ)の勢いとなる。
1184年2月7日、一の谷ひよどり越えで平氏軍を破る。そして、1185年2月19九日、奇襲にて屋島の戦いに勝つ。
1185年3月24日には、壇ノ浦の戦いに勝利し、平氏を滅亡させる。
宇治川の戦いを入れて、四戦連勝なのだ。
義経は都大路の歓喜の中で、京に凱旋。都一番の大スターとなった。
そして1185年4月、桜舞う御所の宴席に義経は招かれる。
そこで都一番の白拍子・静御前と、まるで赤い運命の糸にたぐり寄せられたかのように巡り逢ってしまう。
そして恋に落ち、二人は結ばれる。
しかし、源義経は朝廷に近づき過ぎた。
こんな行動に苛立ちを覚えた兄・頼朝は、義経を朝敵として追討の命を下す。
この追討から逃れるように、秋も深い1185年11月、義経は静御前の手を引いて、西国へと旅立った。
いわゆる静御前との未来にかけた愛の逃避行だ。
しかし、その道中の吉野山、そこは女人禁制。すでに身ごもった静を連れ、ここで義経は進退窮まった。そして生まれて来る子のために、悲しく辛い決断をした。
静を京に戻そうと。
その結果、吉野で別れることに。
静19歳は山を下りた。
しかし、案の定、捕まってしまった。そして、その後人質として鎌倉へと送られる。
鎌倉の主は頼朝と、妻の政子。
この二人は静御前が妊娠六ヶ月の身であることを見抜いてはいたが、頼朝と政子の面前で京の舞を踊ることを所望した。
静はこれを受け、鶴岡八幡宮の舞台で堂々と二曲舞った。
その歌は
「吉野山 峰の白雪 踏み分けて 入りにし人の あとぞ恋しき」
吉野山で、消えて行ってしまった人(義経)が恋しい
「しづやしづ しづのをだまき 繰り返し 昔を今に なすよしもがな」
おだまきのように繰り返し思う、昔であったらどんなに良いことか
全戦全勝の若きヒーローと都一番の白拍子、なぜこんなことになってしまったのだろうか?
静はこんな二人の悲しい運命を恨んだ。
しかし都一番の白拍子だ。そのプライドを掛け、そして義経の愛を信じ、義経を追う頼朝と政子の面前で、うろたえることなく堂々と歌い舞ったのだ。
こんな出来事は噂としてあっという間に全国に広がった。そして義経もそれを耳にし、唇を噛みしめ、静との再会を心に誓う。
さらに月日は流れ、1186年7月29日、静御前は義経の男児を出産した。
だが、まことに不幸なことだ。男児であったがために、さらなる悲劇が静の身の上に起こってしまう。
頼朝と政子はそのいたいけない稚児を静から無理矢理に取り上げた。そして慈悲もなく、由比ヶ浜の海へと投げ捨ててしまったのだ。
その後、9月16日、静御前は鎌倉から解放された。
京に戻ったと噂はある。しかし、真実は行方不明。
どこへ行ってしまったのだろうか?
きっと義経と再会を約束した場所へと……。
一方義経31歳は、それから3年後に、つまり1189年4月30日に、奥州衣川で奇襲に合い、自ら命を絶ったとされている。
6月13日には、美酒に浸けられた義経の首が鎌倉の頼朝のもとに届けられた。そして実検がなされた。
だが、それは義経の首ではなかったのだ。
静御前と義経は再会を果たし、どこかの地で、穏やかに暮らしていた……と、そう信じたい。
いずれにしても【静】という漢字、中身は決して穏やかなものではないのだ。
作品名:漢字一文字の旅 紫式部市民文化特別賞受賞作品 作家名:鮎風 遊