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「いやあ、本当に、久しぶりですね！」と藤峰が言った。「何年ぶりかな？　ええと……」藤峰は両手を出し、計算する素振りをみせた。今の藤峰にはライブのときに感じた虚無感に満ちた雰囲気はなかった。ただの誠実そうな青年のようにしか見えなかった。
「４年ぶりだよ。いやあ、でも僕のことを覚えてくれてて、本当にうれしいよ。それにしても、君はちっとも変わらないね」と紘一さんは言った。
「変わらないのは野崎さんも同じですよ。全然変わってないです」
「いやあ、僕は変わったさ。まず、２年前に結婚したんだ」紘一さんは、後ろに立っていた陽子さんを前に出して、彼女の肩を軽く叩いた。
「ライブ、すごくよかったです」と陽子さんは言った。
　藤峰は目を丸くして、陽子さんを見た。それから紘一さんを見て、「野崎さん。こんな綺麗な人と結婚したんですか！　めっちゃ、羨ましいっすよ！」と言った。
　紘一さんは笑顔を浮かべた。それから、僕たちを指差し、「この二人は僕の友人で、亜季君と沙希ちゃんだ」と言った。
　明らかに僕たちは場違いなような気がしたが、とりあえず挨拶をした。「はじめまして、深瀬です。ライブとても楽しませていただきました」と僕は言って、会釈した。沙希も僕と同じように会釈し、「黒川です。良かったです」と言った。
　藤峰は、何かを考えるような素振りを見せた。一瞬、ライブのときに感じた虚無感のような雰囲気が藤峰に漂った気がした。しかし、すぐにさきほどの笑みに移り変わった。当たり前だ。急に初対面の人が出てくれば誰だって警戒する。そう、僕は思った。
「ああ、よろしく！　まだこんな若い子たちが僕たちのライブを見に来てくれるなんて本当にうれしいよ。ありがとう！」と藤峰は言った。
「それより、藤峰君。どうして４年前、急にいなくなってしまったんだ？　ライブハウスの担当者にも連絡なしに。みんな心配したんだよ」と紘一さんは言った。
　藤峰は苦笑いをした。「どうしても、すぐに、この街から離れなくてはならない理由があって。挨拶もできずになってしまったんですが。……すんません」
「まあ、今こうして居られるからいいけれどね。もちろん、なにか重要な事情があると思っていたよ、君のことだからね。話せないような内容なら、これ以上聞かないけれど、理由を知りたいっていう気持ちも正直あるなあ」
「あの……そうですね。ちょっと難しいですね。話せないというわけではないんですけど」
「いや」と紘一さんは言った。「無理にとは言わないさ。話すのが難しいならもう聞かないよ。すまないね」
「こちらこそ、すんません」
「謝らなくて、いいよ！　それよりも、このあと、一緒に飲みに行かない？　村居君も猶井君もみんなでさ。僕としては久しぶりにみんなと飲んで話したいよ」
「そんなの、全然オッケーですよ！」と藤峰は言ってから、村居と猶井に「なあ！？」と言った。
　二人は声を合わせて、「もちろん！」と言った。それから、村居が「僕たちも紘一さんと久しぶりに話したいですよ」と言った。
「亜季君も、沙希ちゃんもよかったらどう？」と藤峰が僕たちを見てから言った。「お酒はもちろん飲めないけど、ご飯は食べられるし。もちろん、僕たちが奢るよ」
　いや、僕たちは行かない方が良いだろう、と僕は思った。せっかく、紘一さんがひたすら待ち続けていたThe Baked Worldと再会することができたのだ。僕たちのような部外者が邪魔しない方がいいに決まっているのだ。
「いえ、僕たちはこれからちょっと用があるので……」と僕は嘘をついた。
　藤峰は僕たちの顔を見て、笑みを浮かべた。「ああ、そうだね。二人の時間があった方がいいよね」
　僕たちは藤峰と野崎夫妻に別れを告げて、静岡駅へと帰った。沙希に「良かったら家まで送ろうか」と言ったが、沙希は「大丈夫」と言った。僕たちはそこで別れた。僕は自宅には戻らず、今日は徹のアパートに泊まることにした。

　徹のアパートに到着すると、僕は部屋のなかに濃緑色の黴がいたるところに再び形成されていることに気がついた。僕はいつものように、キッチンに置かれたアルコール・スプレーを吹きかけ、雑巾で念入りに取っていく。しかし、今回の黴は今まで以上に大きなコロニーを形成していた。雑巾で拭っても、菌糸は奥にまで侵食しているように見えた。拭っても、拭っても、濃緑色の染みはそこに残ってしまう。
　変容したのだ、と僕は心のなかで呟いた。知らぬうちに、黴は体内で育ち、黴の生えた何かは、以前とまったく違うものに変容してしまったのだ。キャンプ場で行方不明になり、一人で戻ってきた徹が変容してしまったように。あのとき、変容した徹の視線はログハウスの窓から覗き見ていた僕に確かに注がれていた。それは、まさに虚無感の漂う視線だった。まるで何もかもが空っぽになったかのような、虚無に満ちた視線だったのだ。
　そのとき、僕はふと思った。その虚無に満ちた瞳は、今日、ライブで演奏していた藤峰の瞳にも宿っていたのだ。あのとき、奇妙な感覚を覚えたのは、藤峰の視線が徹の視線に似ていたからだ、と僕は思った。二人の顔は似ても似つかなかったが、あの視線だけは全く同じものであるように思えた。
　僕は目を閉じた。真っ黒のスクリーンに藤峰と徹の顔が映し出される。映し出された二人の顔は次第に重なりあっていく。瞳が完全に重なり合う。まさに、まったく同じだ。
　黴の菌糸が残った部屋で、僕は何か不吉な予感がした。何故、そのような不吉な予感がしたのかは分からなかった。しかし、それは確かに感じたのだ。まるで、自分の存在が損なわれてしまうかのような恐怖に満ち満ちた不吉な予感。しかし、僕にはその恐怖を払拭するすべがなかった。
　僕は突然訪れたその謎の恐怖と共に、長く眠れない夜を過ごさなくてはならなかった。そして、その長い夜とは黴に支配された夜でもある。だから僕は、黴の菌糸が身体のなかに侵食しないように注意しながら耐え忍ばなくてはならないのだ。
　その日、僕はシャワーも浴びず、今日の汗がべっとりとまとわりついたままの身体で、毛布をすっぽりと被り、目を閉じ、耳を塞ぎ、夜に溶けた。

　翌日の朝、突然玄関のチャイムが鳴る。不吉な知らせのように断続的にチャイムは部屋に鳴り響いた。僕は玄関へと向かい、扉をゆっくりと開けた。
　目の前の人物を見て、僕は驚かないわけにはいかない。しかし、それは昨日感じた不吉さを象徴するものでもあった。
　つまり、玄関の外には藤峰和央が立っていたのだ。お互いに目を見合わせ、しばらく沈黙した。最初に、口を開いたのは藤峰だった。
「亜季君、驚いたよ。やっぱり、君だったんだね」と藤峰は静かな口調で言った。
　僕は彼の言っていることが分からない。
「どういうことですか？　何故、藤峰さんがここに？」と僕は言った。
「つまり、どういうことかというと、僕は過去にこの部屋に住んでいた人物に用があったということなんだ」
　この部屋に住んでいた人物。つまり、それは深瀬徹のことなのだろうか。僕は唾を静かに飲み込んでから「その人の名前は？」と訊いた。
「名前か、どちらを言うべきだろう」藤峰はそう言って首をかしげた。