在りし日も今は過去
苗字の読み方について問われるのに慣れているのだろう。台本でも呼んでいるかのような返答だった。
「変わった名前ですね」
「親戚一同以外には、恐らくいないでしょう」
つまらなさそうに、曲林は言った。
「それで、仕事の方は順調でしょうか?」
仕切り直し、と言わんばかりに曲林は尋ねた。里見は、ぼちぼちですかね、と言いながらも満更でもなさそうだった。
先日、里見は新しくできる店舗の店長にならないかと誘われた。初めて県外に出す店であることから、他の店長よりも期待されていることは明らかだ。彼は少しだけ時間をくださいと言って、三日間返事を引き延ばしている。明日が、その期限だ。
里見は、そのことを曲林に伝えた。すると、彼女は初めて驚いた表情を見せ、続いて柔らかい笑顔を見せた。
「それは、おめでとうございます」
「でも、まだ受けてはいないんです」
「自信がありませんか」
「いえ、自信はあります」
販売の仕事は、里見に合っていた。丁寧に接客する彼は客からの評判がよく、所属する店の売上への貢献も小さくない。一代で会社を興した現在の社長は、そんな彼を高く評価している。店長就任の打診も、その社長の肝煎りだった。
「ただ、先生と気軽に会えなくなるのがネックで……」
これに曲林は苦笑させられた。
「日曜と祝日以外は、朝から昼休憩を挟んで夜までやっています。電話で予約してくだされば、都合を合わせることもできます」
この返事に満足したのだろうか、それとも妥協したのだろうか、里見は小さく頷くと立ち上がった。そのまま診察室から出ると思われたが、扉の前で立ち止まり振り返った。
「今月までは、今の店にいますから、靴でも買ってください」
曲林は、行くとも行かないとも言わなかった。代わりに、お大事にしてください、とだけ言って頭を下げた。
里見が会計を済ませたあと、曲林は昼休憩中の看板を表に出して、診察室で食事をしながらテレビを見た。高校野球がやっていた。別に興味などないが、地元である徳島の試合は毎年欠かさず見ていた。試合は僅差で敗れた。
届いていたメールを開くと、末の妹からだった。近くまで来ているから会いたい、と書いてある。曲林は白衣を脱ぎ、涼しげな格好で診察室を辞すのだった。