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霧島卿一朗
霧島卿一朗
novelistID. 36792
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在りし日も今は過去

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 もし仮に、あなたの人生の絶頂期はいつだったでしょうか、と尋ねられたとすれば、里見秀俊〈さとみひでとし〉は迷うことなくこう答えるに違いない。十六歳から十八歳までの間です、と。
 それはつまり、高校生の期間だ。彼がそう考える理由は、もっとも鮮明な過去の記憶がその頃であるからだ。すでに二十年も前のことにも関わらず、それは鮮明そのものだった。
 そのことを主治医に話すと、彼女は小さく頷いてから微笑んだ。
「里見さん。あなたは、その当時が自分の人生の絶頂期だったと思われているようですね」
 優しい口調だった。
「そう、ですか……?」
「普通の人間は、自分が最も輝いていた頃のことをいつまでも正しく記憶しているものです」
「俺が普通の人間じゃない可能性もあるじゃないですか」
「いえ、あなたは普通の人間です。断言できます。どこにでもいる、いくらでも替えの利くつまらない人間だ、と」
 優しい口調だった。だが、言葉の棘を隠そうともしていない。
 主治医はエアコンのリモコンを持った。設定温度を、二十八度に変更する。時代は省エネですから、と彼女は呟いた。
「いい加減に、あなたは認めるべきです。どれだけ昔輝いていたとしても、それはとっくに過去のことです。大切なのは、今」
 そう言ってから、主治医は里見の持参した写真を机に並べた。どれも、高校時代のものだ。短く切り揃えた髪と日焼けした健康的な肌をしているのが、昔の彼だ。誠実そうな眼差しと理知的な鼻と口が、整った顔立ちを更に際立たせている。
 その中の一枚を、主治医はライターで炙った。火が写真を半分まで焼いたところで、彼女はそれを空の灰皿へと放り投げた。
「分かります。自分の過去と決別するということは、とても悲しいことですから。ですが、それが先へ進むのを妨げる枷となっているからには、捨て去ってもらわなければなりません」
 主治医の言葉に、里見は何も返さなかった。机に置かれた自身のカルテを見て、小さな小さな溜息をついた。
 高校時代の里見秀俊は輝いていた。そこにいるだけで周囲を明るくできる稀有な存在だった。勉強も運動もでき、容姿にも恵まれているにも関わらず、それを鼻にかけることもない人格者だった。高校生ごときを人格者と呼ぶのは不自然ではあるが、当時の担任ですらそれ以外に彼を表す的確な言葉を探せなかったのだ。
 主治医は、そのことを論〈あげつら〉う。
「あなたの同級生は、口を揃えてあなたのことを褒めます。優れていることを鼻にかけない人だった、と誰もが言います。ですが、私に言わせれば、あなたは十分に自分に酔った人でしょう。その当時の自分が一番よかったと思っている時点で、あなたは傲慢であることの条件をすべて満たしていると言えるのです」
 高校を卒業後、学業優秀だった里見はただ一人、関東の大学へと進んだ。そこで彼は、法律を学んでウィンド・サーフィンにはまった。下宿先から海が近かったので、授業が終わると毎日のように出かけた。それは、高校時代にはない楽しさだった。
 ところが、ある時期から里見は現状に物足りなさを感じ始めた。全校生徒を合わせても四百に満たない田舎の学校と違い、都会にある有名私立大学には千を軽く超える学生がいる。だが、彼のことを知っている者はその十分の一にも満たない。その十分の一に満たない学生ですら、せいぜい名前と顔だけを知っているだけの者が大半だ。高校とは違い、ある程度授業を選択できる大学では、クラス制度がないだけに個々の関係が希薄になりやすいのだ。例外的に芸能活動などをしている者はよく知られていたが、田舎の学校で輝いていた程度の彼など豆電球がごとき明るさにすぎなかったのだ。
 にも関わらず、里見は現状を変えるべく動いた。具体的には、交友関係をとにかく拡大させた。サークルをいくつも掛け持ちして、別の学部の授業に潜り込んで友達を作った。
「私は思うのです、里見さん。友達作り、という日本語はとてもとても虚しいものだ、と。友達は自然とできるものではありませんか。子供が愛する二人のセックスによってできるのと同じことです。そこに小賢しい考えは通常存在しません。友達作りは、人工授精に類似した行為なのです」
 里見の行動は、しばらく軌道に乗っていた。ところが、どんな人間に対しても平等にしか与えられていない時間という壁が、彼の前に大きくそびえ立ったのだった。つまり、彼は人脈を広げるのに躍起になるあまり、学生としての本分である勉学を疎かにしてしまったのだ。その結果は、留年という形で彼にもたらされた。学年が違えば授業も異なるので、自然と友達との時間も減った。その状態でも諦めることなく、一つ年下の学生たちと友好な関係を築こうとすれば、彼は一回りして楽しい人生を続けられたかも知れない。だが、挫折に慣れない豆電球はそこで灯りを途絶えさせてしまった。
 その後、どうにか三回生まで上がった里見だったが、留年という失態は彼にとっての大きな汚点となった。就職活動で面接試験まで進んでも、必ずそのことを聞かれて上手く返せずに何度も落とされたのだ。四回生の秋と冬の移り変わる頃になってようやく内定を得たが、すでに多くの友達は社会に出ていた。何度か会ったが、その口から出る社会人としての言葉は彼にとって外国語のようだった。
「某大手製造企業の子会社に入ったあなたは、工場での研修を終えたあと希望していた営業部ではなく総務部に配属されて腐りました。その数年後、人材不足のおかげでどうにか営業部に配置換えされたあなたは、今度こそ自分の長所が活かせると思ったのですね。ですが、営業に求められる最も大切なスキルは、相手に信頼されることだったにも関わらず、あなたはそれを理解していなかった。まるで過去の友達作りの延長線上であるかのように得意先に接して、いくつもの取引を反故にされそうになった。結果、あなたはわずか一年足らずで再び配置換えとなり、名ばかりの主任として子会社へと左遷された」
 左遷先では、仕事らしい仕事はできなかった。会社の各種資料を編纂して関係する部署へと送付する仕事だったが、彼に与えられたのは編纂ではなく送付の方だった。
「送付と言うと、恰好よすぎますね。おつかい、としましょう」
 優しい口調だった。だが、その言葉には棘しかない。
 そんな子供でもできる仕事で給料をもらっているのだから、当然社内では目の敵にされた。そうやって居場所をなくして依願退職させるのが、その左遷人事の狙いだったのだ。ところが、里見はいつまでも辞めないどころか、弱音すら吐こうとしなかったのだ。ついに人事部は痺れを切らして、退職金を少し多く払うことと次の働き口を世話する条件で彼を退職させた。その約束は正しく果たされ、彼は小さな靴の小売会社へと転職を遂げた。三十三歳の頃だ。
「先生」
 それまで何も言わなかった里見が、不意に沈黙を破った。彼は、人差し指で主治医の鳩尾を指差した。
「どう読むんですか、それは」
 主治医は、首からネームホルダーをぶら下げている。そこには、曲がる林と書かれている。
「曲林〈くるばやし〉です。お忘れですか? まあ、初対面で名乗ったきりで名前で呼ばれることもありませんから、仕方ありませんが」
作品名:在りし日も今は過去 作家名:霧島卿一朗