ベイクド・ワールド (上)
河中さんは苦笑しながら「どうやらそういうことなんだ。君はアルビナで、俺はゲバルト。少なくとも彼女にとっては、俺は河中勝彦ではなく、君は深瀬亜季ではない。そこは飲み込んでくれ。これからの話でその意味は明らかになるから」と言った。
僕はとりあえず頷いた。
「ところで、アルビナさん」と沙希は言った。
「ちょっと、待ってくれる」と僕は沙希の言葉を遮った。「よければ、君の名前を教えてくれないか? フルネームで」
「黒川沙希」
「君は普通の名前なんだね」と僕は皮肉を言った。しかし彼女はそんな僕の皮肉を無視した。
「いい?」と彼女は言った。
「ああ、いいよ。話を続けて。黒川沙希さん」
「話を戻すわよ。昨日、鯉がたくさん死んだでしょ?」
「ああ、僕も実際に見た。数えきれないくらいの鯉が水面に浮いていた」
「あれは、私がやったの」と彼女は言った。
僕は驚かずにはいられなかった。空気が硬直するような感覚をおぼえた。
「もう一度言うわ。あれは、私がやったの」
僕は少し黙ってから、ゆっくりと声を出した。
「冗談だろう?」
「やったといっても、私が直接的に関与したというわけじゃないの。間接的に関与した」
「君は間接的にどうやってそれをやったんだ?」と僕は訊いた。
「私の思考のなかで、鯉たちを西に追いやり、そして殺した。けれど、私はそんなことするつもりじゃなかったの。つまり、私の『思考の隙間』によってそれは引き起こされたの」
意味が分からない。
「全くわからない。思考の隙間?」
彼女は床に置かれたスクールバッグを開けて、キャンパスノートを取り出した。全部で五冊のノートがあった。
『シンセカイ #1』 『シンセカイ #2』 『シンセカイ #3』 『シンセカイ #4』 『シンセカイ #5』
ノートの表紙にはそう書かれていた。このあいだ僕が見たのは『シンセカイ #4』だ。
「これが思考の隙間」と彼女が言った。
「どういうこと? 申し訳ないけれど、君の言ってることはまったく分からない」それから、さきほど河中さんが、沙希が物語を書いていたと言っていたことを思い出した。「これは君が書いた小説?」と僕は訊いた。
沙希は頷いた。「そう。私が書いた物語。私の思考を文字に変換したものよ。眼に見えないものを具象的に形に表したもの」それから一呼吸置いて、「この小説の中では、鯉が死ぬ。そして、マンホールが消失する。もちろん、概念的な意味で、その現象が起きる」と彼女は言った。
僕は少しだけ話が読み込めてきた。いささか非現実的で馬鹿らしいが。「つまり、君の書いた物語の出来事が現実に起きたということ?」
「そのとおり」
「で、鯉が死んだり、マンホールが消えてしまう小説っていうのはいったいどんな小説なんだ? なかなか興味がもてる内容じゃないか」僕は皮肉を言った。
沙希は黙った。
しばらく沈黙が流れたあと、僕は「読んでもいい?」と彼女に訊いた。
沙希は黙って、僕に『シンセカイ #1』を手渡した。僕はぱらぱらと頁をめくった。全ての頁にはびっしりと文字が埋め込まれていた。改行がまったくない。無機質で固い筆跡の字がそこには並んでいた。これだけの文字が五冊分あるのだと考えると、とてつもない長さの物語だ。文体を見ると、非常に硬い文体で読みにくい。けれど文法は非常に高度であるように思えた。
「ざっと、内容を説明してくれるかな? 興味がある」これは本心だった。それほどに奇妙で不思議な魅力のある文章だったのだ。
そして、沙希は一呼吸してから語り始めた。
「舞台はとある街。その街にはもともと名前があったけど、知らぬうちに人々の間でその名前は忘れ去られた。だから、そこはただの街」沙希はゆっくりと語り始めた。
「その街には塔があって、社があって、堰があって、発電所があって、貯蔵庫があって、そして街の中央に忘れ去られた城があるの。北の山岳に堰と発電所があって、ケーブルを介して電気を街の塔に供給しているの。塔からは街に電気が分配される。電気は人々にとって、明かりを照らすものではなくて、それは、あるものを殺すためのもの。あるものとは象蟲(ぞうむし)と呼ばれる生き物で、それはその名の通り虫のような脚をもった象のような形をした生き物。街の人々にとってそれは食糧なの。それ以外の食べ物を食べることは許されていない。象蟲の身体の中には歯車が埋め込まれていて、それは絶えず回り続けている。象蟲の体内からは軋む音が聴こえる。その歯車は象蟲の身体のなかで回転を続け、その肉や内臓をえぐり取っていく。けれど、象蟲は高い再生能力をもっているから、生じた傷はすぐ治癒されてしまう。つまり、象蟲は死ぬことができないの。永遠の痛みを感じながらも生き続けることしかできない。そういう存在。死ぬためには電流を流され、歯車を完全に止められることしかない。そしてそれができるのは人間だけ。ただ、その不気味な音は人々を苦しませる。まるで、その音は苦痛に悶える叫びに似ているから。象蟲に電流を流すと、歯車は回転を止めて、死に絶える。象蟲の肉は人々に食され、歯車は街に組み込まれ、街を回転させる。象蟲の死は街を継続させるためにとても重要な存在。つまり、街は象蟲の身体の一部であるともいえるの。けれども、人間はその肉をすべて食べてはいけない。余った肉は街を走る列車に載せて、街の外に運ばなければならない。それをしなくてはならない理由を人々は忘れてしまっているけれど、それは決まっていること。あるとき、街の大人たちは象蟲の歯車の軋む音に耐えきれなくなる。そして、象蟲をすべて殺すことを決めるの。大人たちは皆それに賛成するけど、子供たちはそれをよく思わない。しかし、それは実行に移される。街にいるすべての象蟲は殺されてしまい、まったくいなくなってしまうの。歯車の音が完全に聴こえなくなる。大人たちは喜ぶけど、しだいに歯車の音が消えてしまったことによって訪れた深く完全な沈黙に大人たちは耐えられなくなる。そして、象蟲の復活を大人たちは望むようになる。だけど、再び、象蟲を蘇らせるためにはあることをしなければならない。その条件は非道かつ残酷なものばかりで、七つの条件があるの。
一 城の堀にいる穢鰓(エサイ)と呼ばれる生き物をすべて殺すこと
二 街に穴を開けること
三 穢鰓の子どもたちを、塔から落とすこと
四 空に音楽を捧げること
五 消えない雲を浮かばせること
六 街の穴に白い子どもたちを閉じ込めること
七 忌み嫌われている生き物である蚓它(インタ)を食すこと
これが条件。大人たちはこの条件にそって実際に行動をするのだけど、これに子どもたちは反対する。それを防ごうと二人の子供が代表となって、大人たちに対抗するの。その内の一人がアルビナ。そして、もう一人がムシカ」と彼女は言った。
アルビナという言葉にひっかかったが、僕はそのまま黙って話を聴くことにした。
作品名:ベイクド・ワールド (上) 作家名:篠谷未義