閉塞感と海
クルマがほとんど通らないメインストリートを、僕が横乗りでバイクに乗っていたのは、別に恰好をつけようとしていたわけじゃない。ガソリンスタンドでエンジンを切ったら、それっきりセルボタンでエンジンがかからなくなってしまった。だから仕方なく古典的な方法でエンジンをかけただけ。これは少し面倒だし、体力も使う。でも、僕のこのバイクは古いから、エンジンがかからなくなった時に使える唯一の方法なんだ。
アスファルトは赤茶色に変色している。潮風のせいだろう。エンジンの調子が出てきたところで、僕は右足を後ろへ蹴り上げてシートに跨った。メインストリートを抜けると、もうすぐそこは海。僕が知っている、どぶ臭くてゴミの浮いた海とは違う。透明で、限りなく青い。もう少し暖かい時期なら、迷わず飛び込めるくらいにきれいだ。
右のミラーを見ると、後ろに白い原付が走っていた。このバイクの速度について来られるくらいだから、相当スピードを出しているはず。追われているのかと思ったけれど、特に追われる理由もないので、僕はそのままのペースで走り続けた。
潮の匂いが一層強くなったところで、僕はバイクを停めた。はためいていた黒いブルゾンが大人しくなる。フルフェイスのヘルメットを脱ぐと、すかさず陽射しが目の奥に入り込む。ヘルメットを抱えて、僕はシートに横向きに座った。目の前には低い堤防。その下には白い砂浜。打ち寄せる波は透明なのに、遠くを見ると海は青い。不思議だ。
ぼんやりとその風景を眺めていると、高い排気音が聞こえてきた。それはすぐにこちらへ近づいてきて、振り向いたときにはすでにそこに白い原付が停まっていた。さっき、僕の後ろを走っていたやつだ。
せっかくここまで来たのに、どうして追いかけられなきゃいけないんだよ、と僕は少し不愉快になる。常に追いかけてくる日常からやっと抜け出してきたのに、ここへ来ても何かに追われないといけないのか。
原付を無視して海に向き直ると、後ろから高い声が聞こえてきた。
「ねぇねぇ、さっきの横乗り、ちょうすごいね。どうやって乗ってんの?」
「え?」
小麦色に焼けた肌の少女が原付そっちのけで、ピンクの半キャップを被ったままこちらへ走って来た。半キャップの横には、黒い蝶が描かれている。半袖にショートパンツ。それにビーチサンダル。転んだら派手に怪我をするんだろうなと想像した。
「これに乗って、ここまで来たの?」彼女が僕のバイクを指さす。
「そうだよ」
「最高じゃん」
「え、何が?」
「しかも品川ナンバーだ。トーキョーから来たの?」
「うん、そう」
「じゃあ、シュトコーに乗ってきた?」
「乗ったよ」
「関越は?」
「乗らなきゃ、ここまで来られない」
馴れ馴れしさを通り越して、親しみさえ湧いてくる。地元の子だろうか。でも、もうゴールデンウィークは明けたから、学校だって始まっているはずだ。学校に通っていれば、の話だけれど。
「お兄さん、何しに来たの? この辺、なんもないよ」
「何しに来たんだろうね」僕は苦笑する。「海を見に来たのかな」
「トーキョーにも海はあるよね」
東京湾の汚さを説明してやろうかと思ったけれど、きっと信じないだろう。こういうタイプの女の子は、人に質問する前からすでに答えが決まっている。出会って数分だけれど、直感的にそう思った。
今朝、いつも通りに僕は学校へ行って講義を受ける予定だった。歯を磨いて顔を洗って、食欲がなかったから朝食はバナナだけで済ませて、財布と携帯と筆記用具しか入っていないくたくたのリュックを背負ってアパートを出た。違ったことといえば、いつもよりもなんとなくぼんやりしていたと思う。課題のレポートを持ったかどうかも、確認しなかった。そのまま駐輪場のバイクに跨って、気がつけば東京を出ていた。
東京脱出。誰からも連絡はない。僕のことを誰も知らない場所に、僕は来ている。
「今頃、昼休みかな」僕は腕時計を見た。
「そうだね」
「え?」
「わたしはサボりだけど、お兄さんもそう?」
「サボり・・・・・・、かな」
「こんなところまで来ちゃうなんて、壮大なサボりだね」わたしはそこの高校の生徒だけど、と付け足す。
逃げてきた、のほうが正しいような気がしたけれど、言わなかった。口にした途端に情けなく、陳腐な言葉になってしまう気がしたからだ。大切にしたい言葉や思いは、口にしないほうが良いときもある。
「ときどき、こうやって息をしないと、死にそうになっちゃうよね」少女が笑う。
「息は、寝ているときもしてる」
「そうじゃなくて・・・・・・、こう、ずっと水の中に潜ってるっていうか。でもそのままじゃ死んじゃうでしょ。だから、苦しくなったら顔を出さないといけないの」
あぁなるほど、と僕は納得した。逃げてきた、というより、息をしに来た、のほうがしっくり来る。あまり頭の良さそうな女の子には見えないけれど、案外哲学的な一面を持ち合わせているのかもしれない。
息をしている。深く息をしている。たぶん、今までで一番、僕が生きている瞬間かもしれないと思った。この同じ時間を共有するのは、名前も知らないへんてこな少女だけれど、ひとりぼっちよりはましだろう。それに、彼女の思想を分けてもらったことは、僕にとって決してマイナスなことではなかった。
心と体に十分に酸素を取り入れた僕は、たぶん明日からまた、平凡な日常に帰るだろう。日常から逃げ続ける勇気は、僕にはない。
それでも、生きていける。こうして、たまに呼吸さえしに来ることができれば、僕は窒息せずに、きっと、これからも生きていける。