モノクローム・ブルー
群青のビー玉に似た空の色が、飛行機雲に影を作り、その眩しさを増長させていく。雲ひとつない真っ青な空に一筋の光のようなそれは、まるで一縷の望みに似ていた。と、昨日の自分ならば思ったであろう。今は終焉の合図に見えて仕方がない。
澄み渡る空も、虫の声も風の音も、真上に昇る太陽も、騒がしい街頭も、自分に無関心であるはずの何もかもが、ただ自分をあざ笑うために存在しているようで、途轍もなく気分が悪い。
右手に財布、左手に携帯電話、足元は引っ掛けただけのサンダルというラフ過ぎる格好で地獄の修羅場から逃げ出して来た樫木志緒は、生まれて初めて、己の天命を恨んだ。
不愉快な電子音が鳴る。それは特定の人物からの着信でのみ聞くことが出来る、特別なものであったのに、今はひどく耳障りに感じる。雑踏の中では自分の耳に届くか届かないか微妙な音量であるにも関わらず、それはまっすぐ樫木の心臓を穿つ。
子供のように耳を塞いでいる場合ではない。応答しなければ。コール音にして4回、だがとても長く感じた。握りしめた携帯電話が熱を持ち始め、放熱出来ず人知れず悲鳴を上げた。
亀のようにのろのろと画面を確認する。ああ。今一番見たくなかった名前で、今一番話をしなければいけないひと。いつものように最愛の女性が待つ部屋へ、いつものように鼻歌交じりで階段を上がり、いつものように彼女の名前を呼びながら、いつものように――――
「大人なんだから分かるよな」
その場所にいるはずのない男は、自分より年上のしっかりとした口調で、肩を叩きながらそう言い放つ。樫木は黙って部屋を出て行くしかなかった。肌を露出したままの彼女は終に振り返ることなく、三年続いた心地の良い関係は幕を閉じる。それも極めて唐突に、そして呆気無く。
敷地を出ると樫木は走りだした。誰もが自分を知らない世界へ、逃げ出してしまいたかった。冷静な論議は出来そうにない。もちろん自分の、頭の中でも。
いつから自分以外の誰かとあの部屋で過ごしていた?自分が頼りないから、年上の男に惹かれていったのか?この行き場のない思いは、彼女へぶつけるべきだったのか?大人なんだから理解しろなんて、そんなのは詭弁だ!
走りながら、ありとあらゆる考えがぐるぐると脳内を巡る。しかしそのどれもを、誰かに打ち明けるつもりはなかった。
着信は拒否した。彼女の番号も消した。このまま今日が終わるまでは何も考えず、喜劇の主人公でありたい。
樫木は、出来るだけ普通を装い街を歩く。目に映る全てが自分が嘲笑っているのだと、過剰に自負しながら。
あれだけの悲劇を思い出さずに街中を練り歩くなど無理だ。どの場所にも、彼女との思い出があるのだから。女々しいものだが、少しでも脳内に蘇ると涙が溢れる。咳払いをして誤魔化そうとした時、腕に確かな抵抗があった。
「お兄さん、財布落としたよ」
金と言うよりは蜂蜜より薄い色の髪が、ふわふわと樫木の目前を泳ぐ。着崩したスーツが、社会人という事実を曝け出す。形のいい目が、ぱちりとまばたきをした。
差し出されたそれは確かに先ほどまで手にあったはずの自分の財布だが、目の前の男は落としたと言った。どこでだろう。まさか追いかけて来たのだろうか。
「あ、ありがとうございます」
「お兄さん歩くの早いから大変だったよ~あのさ、駅ローソンの前で落ちたの見たんだけど、お兄さんので間違いないよね?」
財布の中から免許証を抜き出して男の前へ差し出す。免許証と樫木の顔を見比べ、ほっと一息ついた。よかった、と明るい笑顔が咲いた。
踵を返し、それじゃあ、と手を上げて向こうへ歩き出そうとしたその腕を、今度は樫木が掴む。
「あの、よかったら」
「ん?」
人好きしそうな笑顔は崩れる事なく、まっすぐ樫木へ向けられる。あれだけ将来を誓い合った彼女の笑顔は、とっくに自分へ向けられていなかったのに。
「お礼させてください」
男は目を細めてにこりと微笑むと、懐から取り出した一枚の紙切れを樫木へ渡した。それには男が勤めているであろう会社名と所在地、番号、キャッチコピーなどがスタイリッシュに記されてある。そうして上段に大きく、「三鈴菊」と書かれていた。
『あっ、もしかして昼間の樫木くん?ごめんねーわざわざ電話かけさせちゃって……今?そうちょうど仕事終わったとこ。八時までには着けると思うから』
夕の折、名刺を受け取りながら樫木は「忙しいなら無理には」と口を開いたが、三鈴がそれを阻んだ。
「定時六時半だけど多分一時間残業になると思う。それくらいの時間に電話くれると嬉しい。……なに?お礼するの面倒になった?」
「そんなこと、ない、っすけど」
まさか名刺を頂く事になるとは予測しておらず、両手で掴んだまま動けずにいた。すっと樫木から名刺を奪い、裏の無地へさらさらと数字を書いていく。
「ここ、携帯の番号書いておくから。えーっと、俺ね三鈴って言います、みすずきく。先月アラサーに成りました!お兄さんは?」
「……樫木志緒、大学生です」
「ありゃ、俺より年下だったんだね。じゃあ樫木くんだ。……おっと、やばい休憩時間終わるから行くね、じゃあまたあとで!」
手を大きく振りながら走って行く三鈴の姿を、まるで小さな犬のようだと思った。
財布を拾って届けてくれただけでお礼など、重苦しいだろうか。一人になると途端に下向きになっていく思考が、判断を鈍らせる。三鈴と会話している時は、件の悲劇が忘れられた気がした。ずっと視界の隅でチラついていた彼女の顔も遠ざかっていく。
三鈴の笑顔が、段々と割合を占めていった。
約束の時間まで残り五分を切り、まるで恋人との初めてのデートのようだと錯覚する。心臓が逸り、落ち着かない。携帯を何度も見る。辺りを見渡し、蜂蜜色の髪を探す。いない。
帰り際、同僚にでも捕まったかな。立ち話をしているのかも知れない。約束の時間が過ぎる。一分。五分。十分。来ない。そわそわしていた鼓動が、段々と焦りに代わり、不安を煽る。立ち上がり、昼間に三鈴が消えていった方角へ向かう。
名刺を頼りに、事務所の住所を確認した。西通り郵便局目の前六鶴ビルの三階。あった。名刺と同じ名前の事務所だ。流石に中には入れず、ビルの前の石段へ腰をかける。
石段がひやりと足を冷やす。段々冷めて行く脳内で、自分はまた愚かな事をしたのではないかと気分が沈んだ。
地についた足を踏みしめ、震える身体を抑える。視界の端で、見覚えのある蜂蜜色が揺れた。立ち上がり三鈴の名を呼ぶより早く、それに寄り添うもう一つの影を捉える。
「み……」
ビルのガラスの向こうで、ふたつの影が重なる。細い三鈴の腰をもう一人の腕が支え、三鈴の腕はその影の首へ伸びていた。ビル内は消灯されているとは言え、街灯は明るい。立ちすくむ樫木の肩が、そのまま崩れ落ちてしまいそうだった。
石段へまた腰を下ろす。反動で座ったと言えば正しい。もうビルの内部は、見れなかった。
どれくらいそうしていたか分からない。未だ震える足、携帯電話を握る力は弱々しく、一時の作り笑いも出来そうになかった。通り掛かる人々が怪訝そうに眉を顰めているのを、どこか他人事のように見ていた。
作品名:モノクローム・ブルー 作家名:桐重