ヤマト航海日誌
2015.10.11 しもずま物語
人間は自分が自分でよくわからない。であるから、「〈永遠の十九歳〉って実はお前じゃねえのかよ」ともし人から聞かれたら、「いや、それは……」とおれはたぶん口ごもるしかないだろう。
何しろこの四半世紀、オッサンどもから「お前もいい歳なんだから、いいかげんに大人になれ」と言われ続けてきたからなあ。出渕裕をさんざっぱらジュークジュークと書いてきた以上、ここらでおれ自身の〈十九歳〉のときの話をするのがフェアというものだろう。すみませんが今回も『ヤマト』ともおれが書いてる小説とも直接ほとんど関係ないです。興味のない方はスルーしてください。
中一まで栃木の宇都宮で過ごし、親の仕事で引っ越した話を前に書いたけど、次におれが住んだのが茨城県の下妻市である。深田恭子主演の映画で十五分ばかり有名になったのでご存知の方もいるであろう。
《下妻》と書いて『しもつま』と読む。のだけど、実は、下妻市民はそうは呼ばずに『しもづま』と言うのだ。と言うか、『しもずま』に近いかな。下妻市民が「シモズマシモズマ」と話していると、近隣の、えーとなんて言ったかなホラあのバカな大仏のある、牛久(うしく)か、それから、忘れたけど〈クシウ〉とか〈ウクシ〉とかいった村の人間が、「シモズマじゃなくシモツマだっぺよ!」となんかムキになって言う。彼ら〈冥王星型市民〉の前で『しもずま』とはうっかり言っちゃいけないのである。
でも言っちゃうんだよな。だってさあ、言いにくいじゃん『シモツマ』なんて。どうも茨城訛りが強いとうまく発音できるらしいがおれにはできない。市の中心ではだいたいみんな『しもずま』で、外縁部の〈準下妻〉だけが『しもつま』と呼んでいる。そしてカイパーベルトを過ぎると、外宇宙では誰もそんなの知るわけないから、「あの恒星系はきっと『しもづま』というのだろうな」と〈異下妻人〉から思われてしまう。そういう変なドーナツ空間なのだった。
だから『しもずま』と呼んでもいいよ。あの映画の原作小説……いやあ読ませてもらいましたが、主人公のなんとか桃子は下妻に住んでた頃のおれほとんどそのまんまで、って別にロリータ服を着てたわけじゃないですよ。それに親がヤクザなわけでもないですけど、聞いてください。おれは母親が東京は日本橋の、それも呉服屋なんかやってる家に生まれて、幼い頃は母に連れられ都の真ん中に通うようにしていました。そう言えば『ヤマト』の最初の劇場版も、もう宇都宮に住んでたけれど親の帰省についてった折りに浅草で見ました。で、小学生期をその年頃にたぶん理想の宇都宮。
そういう育ちの人間が田んぼばかりのあの下妻でティーンエイジを送らねばならなくなるというのはちょっと、ふつうの人にはわからんでしょうが耐えがたいものがあるのです。
それは鬱屈の日々でした。当時のワタクシはあのお話の〈リアル男桃子〉だったのであります。
で、もちろん現実は小説や映画みたいなわけにいかないからどうするかってえと、もう虚構に逃げ込むしかない。幸いに、と言っていいのかちょうどその頃、中学生が逃避するのにうってつけの『クラッシャージョウ』とか『エリア88』だとか、『戦闘メカザブングル』といったのがたくさんあったわけやねん。
あれは黄金時代ですよ。でもう本気でのめり込んだね。そうするしかないんだから。あの『さらば』のムック本もずっとめくって読んでたよなあ。設定画稿見るだけならカッコいいだろ? 出渕裕の気持ちもわからなくはないわ。
おれと違ってローティーン期に『ガッチャマン』と『海のトリトン』しか見るものがないとは、うわあ……そりゃ酸欠の金魚だよなあ。西崎義展なんかを神と崇めるようになるのもわかるよ。地下鉄にサリン撒くようになるのもわかるよ。
おれなんか高校入るとアニメじゃ追いつかなくなったところに、『インディ・ジョーンズ』や『ターミネーター』なんかが来て「おおお」となるんだが、それと一緒に忘れちゃいかんのが〈ソノラマ文庫〉の『妖精作戦』だ。
あれこそ、〈十九歳の男〉がまるでおれのため良くも悪くも書いてくれやがったようなシロモノだったねえ。高一の夏休み最後の日、十六歳のおれが本屋で出たばっかりのあれを「なんじゃいこれは」と思いつつ買って読んだ衝撃は……いや、最初は正直なところ、あきれながら読んだんだけど。
笹本祐一、いま何やってんですか。ああ、なんかやってたよな。『宇宙海賊ボイーン・シリマルダス』だっけ。パチンコの台で打つならおもしろそうだが、アニメは絶対見たくない感じの……あの作家は『ARIEL』書く前のところで夭折してりゃよかったんだ。そうすりゃきっと、伊藤なんとか以上のすごいブームが湧き上がっていたろうに。
うん、やっぱり、〈永遠の十九〉ってのはああいうのを指して呼ぶべきものであって、おれはちゃうんとちゃうやろか。十八歳のときにはおれは、『うる星やつら』と『めぞん一刻』を読んでいた。それもなんだか食い入るようにだ。『うる星やつら』は小学生の頃から知っていたのに、高三で急に原作マンガに食らいついたのは、やっぱり大人になりたくない気持ちがおれにあったんだろう。で、一緒に『究極超人あ〜る』も読んだ。
少年マンガのキャラクターはずっと永遠に高校生だ。そう思っていた。ところが違った。1986年、おれが高校卒業になるのとほぼ同時にして、『うる星やつら』の連載は終わり、『あ〜る』のメインキャラ達は春風高校OBになった。
おれの〈十九歳〉の日々は『めぞん一刻』の五代裕作の日々だった。そうなるのはわかっていたが、あのマンガも完結していた。〈東京の大学生〉なんかにおれはなる気になれず、だからと言ってどうしようもない――当時の世はバブルに踊っていたそうだが、五代裕作みたいなおれにはてんで関係なかった。
せいぜい、あれか。おれの母方のおじさんが呉服の展示会をするのに人手が足りんから銀座マリオンの向かいにあるソニーのビルに来てくれと頼まれ、「なんで電気メーカーのビルでキモノ」と思いながら出掛けて行くと、あの七階か八階建てのビルの六階あたりのフロアが全部畳敷きになっていて、おれは「えーっ?」と思ったんだ。
おれの仕事はダンボールの箱を片付けるだけのことで、その後には富士のサロンに寄って帰った。銀座へ行くたびあそこに寄っていたけれど、清水商会の窓を眺めるようになるのはまだ先のことになる。
『妖精作戦』を通して読んだ者ならば、あの四冊がどう始まってどう終わるか知ってるだろう。〈十九歳〉の頃のおれは、あの話の一応は主人公の榊裕みたいでもあった。東京まで出掛けて行って朝から晩まで、ときにはオールナイトも入れて二日がかりで映画をハシゴして歩くのだ。
下妻という土地は、そういうことをするにはよかった。いや、よくないんだが、そういうことをするのに変にちょうどいいような東京との距離なのだ。
『下妻物語』を見るか読んだ人ならやはりわかるだろう。その頃のおれはよく朝の山手線の中でウツラウツラしていた。