ヤマト航海日誌
そう言ったらイヤ味ですかね。でも本当におれが見てそう思うしかないのだからしょうがない。『第三の男』に出てくる〈第三の男〉は、たぶん、数多(あまた)ある映画の中でも、上から三番目くらいに悪い男だ。これより悪い一番目と二番目って、いるんだろうけどすぐにはちょっと顔が浮かばないくらいに悪い。だから、おれや君なんかが明るい部屋でいま見たとしても、思うだけだ。この野郎は、震災の街で空き巣に入り込み、金目のものを盗み取って、寄ってくる犬をエアガンで撃つ。そんな最低のクズと同じだ。下水道のドブ水に溺れさせてちょうどいいんだと。
そう思うだけでゾクゾクしない。だいたい、まったく何もかも話が変だと感じてしまう。君は、君の友人が「いいカネになる仕事がある」と言うので会いに行ってみると、被災地ドロの仲間になれとの話だった。その友人がケケケと笑ってこれがどんなに儲かるかと得意気に言って聞かせたとして、誘いに乗るか? 乗らねえだろう。普通はさ。君がもともと振り込め詐欺とかやってる人間ならばともかく。
あれはそういう映画なんだよ。〈第三の男〉とは誰なのか――始まって十五分目に主人公がそう言った瞬間に誰でも思う。『○○に決まってるじゃないかよ! それがわかんねえのか、こいつ?』と。なのにこの主人公は、十五分ごとに首振って言うのだ。「わからん。〈第三の男〉は誰だ……」
バカかお前? だから○○という男はね、震災の被災地ドロと同じなの。どうしようもない最低のケチな犯罪者が、マッポに追われて杜撰(ずさん)な隠蔽工作を重ねているだけのことなの。そんなの、どっか高いところに昇って事件を俯瞰(ふかん)して見ればひとめでわかるはずだろうに……。
そう思って見る者にはぜんぜん極上のミステリではない。で、もちろん、おれはやっぱりそう思って見てしまう者であるのでぜんぜん極上のミステリではない。どころか、デタラメもいいところだ。けれども、もしも冬の夜に窓を開け、灯りを消して毛布をかむり腹をすかせて見たならば……。
あのモノクロの映像に君は打ちのめされるだろうな。そういう映画だ、『第三の男』は。あの『ブレードランナー』さえも、そこだけはとてもかなわない。
『ブレードランナー』という映画の背景はただのセットだ。有り得ない形のビルと〈強力わかもと〉、《 ゚コ ゛ルフ月品》のネオンサインがあるだけだ。だから『第三の男』に勝てない。あれを超える映像と言って、おれが知るのは『僕の村は戦場だった』くらいだろうか。『わが青春のマリアンヌ』は見ていないのでなんとも言えんわけだけれども。
団塊世代が二十代で白黒テレビにかじりついて何度も何度も見たのもわかる。原作のH・G・グリーンによればあの映画のストーリーには当時のウィーンの現実が背景にあるというけれどもそれも然りだ。ひとりのバカがただのケチ根性でペニシリンを水で薄める。それを次の人間がウインナコーヒーでもって薄める。
それをさらに〈第三の男〉が、タラララランと歌いながらビールで薄める。そんなことが第二次大戦敗戦国の戦後の闇にあったってことだろ。本当は、ただそれだけのことなんだろうよ。くだらん話だ。それをよくまあ、鳩時計だのなんだのと。
なら最初から食塩水を詰めて売ればいいだろうによ。なんでそこに気づかねえかとおれは思うよ。思ってしまう。だからおれには『第三の男』は何度見てもいい映画ではなくて、見るとイヤ気がさすものだからちょっと嫌いな映画なんだ。
団塊世代はどんな眼をしてあれをテレビで見たのだろうか。彼らがはたちの1968年は〈世界が揺れた年〉と言われる。ベトナム戦争の泥沼化と〈プラハの春〉、フランスによる水爆実験。日本では水俣とイタイイタイの被害者を企業が「アリだ」とあざ笑い、三億円事件が起きた。バイクその他に二百万円かけたとしても2億9800万円、所得税なしだ。最高で完璧。
その犯人は団塊かその前後の生まれであったろうという。だからやっぱり白黒のブラウン管にかじりついてあれを再三見たのじゃないか。『ゴジラ』も最初の一作目だけ、テレビで繰り返し見たのじゃないか。団塊生まれで世界が揺れているときにはたちになるとはそういうことではないのか。
出渕裕はその頃に、『ゴジラの息子』『怪獣総進撃』『オール怪獣大進撃』と、〈ミニラ映画〉を続けて見ていた。カラリと晴れた富士山麓、ミニラがやってまいりました! そして学校で級友に、「お前さあ、小学五年にもなって、まだそんなの見てんのかよ」と言われていた。オレはゆうべ、『第三の男』ってえの、テレビで見たぜ。タララララ〜ン。
大人の階段昇るキミは今ツンデレラさ。そうだ。そういうことなのだ。昭和二十年代生まれは『ヤマト』に対して冷たかったと言われている。「まあまあよく出来ているとは思うけれども、しょせんジャリ向け」と、そう言った。そして出渕と同じ歳でも、「大人の見れるテレビマンガ」なんて言ってノボセてたのは出渕と同じ変なのだけで、大半は「幼稚」という考えだった。
そうなるのは、その彼らが『第三の男』を見ていたからだ。『ゴジラ対ヘドラ』『ゴジラ対ガイガン』『ゴジラ対メガロ』。ゴジラとジャガーでパンチパンチパンチ……なあ、ぶーちゃん、本当にやめろ。テレビで見るならまだしもそれを映画館で見てどうする。場内に中学生はお前ひとりなんじゃないのか。加藤だとか仲本だとか、ええとそれから、荒井だとかは大人の階段昇ってポルノ映画館入っちゃったりしてるというのに……え? そうか、お前には『キューティーハニー』と『ふたりと5人』があればいいのか。ふうん……だめだこりゃ。
それより、『第三の男』だよ。あれはいいぞ、何度見ても。つっても、もうテレビではやらないかもしれないけどね……。
白黒だから。テレビはカラーになっていたから。きっとそういうことなのだ。そんなところに『ヤマト』が現れ、出渕はこれこそ自分が待っていたもの、大人が見れるアニメなのだと飛びついた。だが級友の反応は、
「うん、まあ結構おもしろい。だけど高校生にもなって夢中になるほどじゃあないよ」
そうして言った。それより『第三の男』だよなあ。あれをいつでも見れるようにならないもんかな。ビデオってすげえ高いんだろ……。
そのようにして『第三の男』は、昭和三十年代生まれの間でイコンとなっていったのじゃないか。それは手に届かぬ像だ。〈何度見てもいいもの〉でなく、〈見ることのかなわぬもの〉……昭和四十年代生まれのおれの世代にとってのそれが、〈ランボルギーニ・カウンタック〉であるように。出渕裕は見ていないのに見たという思い込みをしてるのである。
ああやれやれ、どうにか『ヤマト』の話になったねと言ったところで話を戻すが、この日誌を今この夏に読んでる君も、ケチな根性をあくまで変えずにまだおれから盗み取る気でいるんだろう。自分では三億円事件の犯人と同じく完璧な気でいるんだろう。『ただのデータだ。お金や物じゃないからいいんだ』と考えてやめないんだろう。