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ヤマト航海日誌

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一、二、すわぁん! 四、五、るぉく! 三と三の倍数と三のつく数でタリラリラン! 『第三の男』を語るなら、ちゃんと三回見てからにしろ! しかし団塊世代あたりは、ほんとに何度も何度も見ている。白黒の小さなテレビにかじりつき、ああこいつをロードショーで見れる時代に生まれたかった、でもそうすると、食うものもなく、空から爆弾が降ってくることになるから考えものだな――なんてなことを思いながら。

そうして何度も何度も見ている。「66!」から「72!」年までの間に、おれが書く『敵中』の中の古代と同じ二十代(ああよかった。やっと『ヤマト』の話にできたぞ。あくまでも〈おれのヤマト〉の日誌だからね)の時を生きて彼らの青春に、あの映画をサヨナラ先生の解説付きで記憶に焼き付けているのじゃないか。雨の中の涙のようには容易く消えぬものとして……『第三の男』が「何度見ても」と言われるのは実はそれが理由なのではないだろうか。

テレビに色が付いたとき、日本にとっての戦後は終わった。『第三の男』は誰も見ることのできぬ映画になった。73から84年までの間はまったく一般の眼に触れていない。

VHSのビデオで見ても、ただ退屈なだけの映画だ。ひょっとするとおれはあいつを何も知らずに銀幕で見てゾクゾクとさせられた最後の日本人かもしれない。

劇場を出ながら妙にモヤモヤとした感情が残り、けれどもあれをビデオを借りて見る気になれず、それきりになっていた。テレビ放映はやはりされぬし、リバイバルもされはしない。『ビルとテッド』のように――いや、いかん、ええとその、名画座でもとんとやらない。ひょっとしておれがあのときに見たあれが、この日本で最後に小屋に掛けられた『第三の男』なのじゃあるまいか。

そう思っていたのだけれど、しかし最近のことですよ。この六年の間に何度かケーブルでやったのですよ。ハードディスクに録画して、おれは見て十五分で『やっぱり古いだけやん』と思ってそこで消しました。

うん。でもやっぱりモヤモヤが残る。録っては消し録っては消しを繰り返してようやく気づいた。これはやっぱりあれと同じだ。『ブレードランナー』。白黒テレビのブレードランナー。それが『第三の男』なのだとわかってようやくローズバットの謎が解けた。

『ブレードランナー』。あの映画のストーリーはデタラメだ。でも何度も見てしまう。映像がカッコいいからだ。暗い街に得体の知れぬ悪人がいて、主人公がそれを追う。『追う』と言ってもしかし街は迷路なので、たださまようばかりとなる。

それが『ブレードランナー』だ。そして『第三の男』もそうだ。ふたつで充分ですよ。ふたつで充分ですよ。わかってくださいよ。

そんな映画だ、『第三の男』は。白と黒、光と闇の伝説だ。主人公はエイリアン。彼はリーガル・エイリアン。アン・アメリカン・イン・ウィーン。戦争で降った黒い雨が乾き切らない街を訪ねて、誰かに見られているのを知る。暗がりから不敵に笑い現れたのは、彼のかつてのバディ(親友)だった。その再会は逃れられない決闘の道へ……そんな映画だとわかってください。これで本当にその出来がすべて完璧で最高ならば、君も何度でも繰り返し見るであろうとわかるでしょう。

しかしそうならないのは、人が言うほどじゃないからである。今の眼で見てあまりに古いからである。〈戦後〉を肌で知る者には今でもこちらが上なのかもしれないけれど、『ブレードランナー』を先に何度も見てしまうともういけない――おれとしてはそう断じる以外にない。

特に前半は退屈で、「あなたは英語が話せますか」「はい、少しだけ話せます」なんてとこから始めて、「シドニィ・シェルダンの著作について思うところを述べてください」なんて設問に答えろと言われる英会話の教材のようだ。よかった。あんな広告に騙されてカネを使わなくって。〈アカデミー〉なんて名のつく会社にハガキを送っちゃいけないとおれはもう学んだんだからな……。

いや、ええと、とにかくその。ね、古い話でしょう。今の人間がこれ読んで、なんのことかわかるかという。それが言いたかったんだ、うん。

『ブレードランナー』は極北にいる。あれを超えるものはなく、誰にも越えることができない。スジはデタラメで、悪役が、最後にわけのわからないことをつぶやいて死ぬ。「すべての想い出はやがて消える。ローズバット……」とかなんとか。それを眺めて、『結局こいつ、何がしたかったんだろう』と考えると志村けーんとけーんナオコの夫婦コントになってしまうが、考えてはいけないのだ。監督はスコット・ドッコイで何も考えちゃいないのだから。「この悪役のやってることは何もかも変だ」なんていちいち指摘してもしょうがない。

『第三の男』はまったく同じだ。戦後ただなかの映画だが、今は戦後の時代ではない。テレビを見るときは部屋を明るくし、画面からなるべく離れてくださいねと、言ってもしょうがないことをおせっかいに言われる時代だ。しかし、けれどももし君が今はたち前後で『第三の男』を見るならばその警告に決して従ってはならない。部屋を暗くし、膝を抱き、背を丸めてテレビ画面にかじりつけ。かつてあれを本当に繰り返し繰り返し見た団塊の若者達は皆そうやってあれを繰り返し見たのだろうから。〈1968:世界が揺れた年〉を挟んだ前後数年間。その時代の闇に呑まれた彼らの心があの映画の描く闇に己の青春を重ねたのだろうから。

何も食うなよ。あれを見るなら、その日はまともな食事を摂るな。できれば冬に窓を開け、毛布にくるまりながら見ろ。決して部屋の灯りは点けず、〈一時停止〉は押さない覚悟で長い前半の退屈に耐えろ。

そうでもしないとカラー液晶とハードディスクの今に見てあの映画の理解はできない。それとも、君が〈3.11〉の被災者とでもいうならば、話はまた別かもしれんが。そのときには顔を青くし身を震わせて「この映画は最高だ、何もかもが完璧だ」と君は言うのかもしれないけれど、そうでないなら違うのだから部屋は暗くしないといけない。

あれはそういう映画なのだ。出てくる悪役のやることは、何もかもが変なのだ。闇の世界を見たことのない普通のマトモな人間の眼には、ぜんぜん完璧でも最高でもない。

淀川長治はあの映画を、すべてがあまりに完璧でイヤ気がさすほどだ、と語っていたという。完璧なものを完璧に作り、完璧さをひけらかしていると人はそういうことを言われる。だからサヨナラ先生は、あの映画をちょっと嫌いなのだと人に語っていたのだとか。

でも大丈夫。あの映画はおれの眼で見てツッコミどころいっぱいだからね。だいたい、変だろ。警察に追われる男が自分から、なんで観覧車なんかに乗るんだ。乗ったら最後グルリと一周しないと外に出られないのに、乗るか。普通。犯罪者が。

悪党は観覧車に乗りませんよ。自分を追う者達が下にワラワラと集まってきたらどうしようと思うはずだから乗りません。なのに〈第三の男〉は乗る。そんな映画の何が完璧なもんですか。
作品名:ヤマト航海日誌 作家名:島田信之