ぶどう畑のぶどうの鬼より
10 キョンスクを追った夜
豚のキョンスクが
突然逃げた
理由なんか
知るもんか
そんなことより
おまえがそれを捕まえに
ひとりで山に
入って行った
それを聞いた瞬間から
日暮れも近い
山奥で
迷子のおまえを
探し当てて
この目で顔を
見るまでの
記憶が今でも
俺にはない
俺と行きあって
ほっとして
当のおまえが
その場でへなへな
腰を抜かした
だけならまだしも
おまえだと
判ったあのとき
俺まで一瞬
失神しかけた
お笑い草だろ?
ヘビ!ヘビ!と
絶叫しながら
夢中で
突進してくるおまえは
幽霊じゃなくて
まだ足がちゃんと
2本ついてて
無事に生きてる
この世の
おまえだったから
俺は
体の力が抜けて
生まれて初めて
失神しかけた
だいたい
むこう見ずにも
ほどがある
男でも
日暮れ前には
下りる山
当てもないのに
女の足で
目までぼうっと
真っ赤になるほど
何時間
ほっつき歩けば
気がすむんだ?
探しに来てくれて
ありがとう?
いきなり何だよ
勘違いするな
豚捕まえに
来ただけだ
日も落ちて
川原におこした
火の前で
白いいつもの
長ぐつはいて
茶色い毛布を
ひっかぶり
ちょこなんと座った
誰かさんは
蓑を着た
ひなびた昔の
人形みたいに
あどけなかった
慣れない手つきで
混ぜてよこした
インスタントの
コーヒーが
何万もする
ぶどう酒よりも
俺にははるかに
美味かった
たき火の前で
おまえは口を
とがらせた
「テントも毛布も
コーヒーも
なんでこんなに
一切合財
1人用なの?
気が利かないったら
ありゃしない」
相手になるのも
大人げないから
知らんぷりして
聞き流したけど
心の中では
言い返してた
俺が行くまで
絶対死ぬな
何が何でも
生きてるおまえを
探し出すって
それしか頭に
なかった俺が
1人用だか
2人用だか
そんなことまで
知ったことか
量はともかく
登山道具と
名のつくものを
しょってただけでも
褒めてくれ
心の中で
そう言ってた
遅いから
テントに入れと
おまえを急かして
5分もたったか
たき火の番人
買って出たのに
疲労と安堵の
睡魔に負けて
夢うつつで
くしゃみをしたら
「一緒に寝よう
寒いでしょ?」
テントから
おまえがひょっこり
顔出した
無邪気な顔して
言うもんじゃない
そういうのは
親切なんか
通りこして
拷問って言うんだ
この鈍感
おまえのうぶな
良心が
あのときばかりは
恨めしかった
「俺を襲うな
おまえなんかに
興味はない」と
悪態つくのが
関の山
今だからこそ
笑えるけど
あのとき俺は
初夜の寝床の
新郎さながら
カチンコチンに
固まって
テントの隅に
縮こまってた
おまえが呆れて
噴き出したのも
無理はないけど
俺はいたって
大真面目
恋人でもない
結婚前の
娘と並んで
一晩いっしょに
寝るなんて
明日になって
どの面下げて
山下りられる?
俺がとやかく
言われる分には
大して痛くも
痒くもないが
せめておまえの
名誉ぐらいは
何としてでも
守りたかった
互いにちっとも
寝つかれなくて
間がもたなくて
おまえなんかじゃ
嫁のもらい手が
なさそうだと
ついつい
口が滑った俺に
そっちこそ
良くできた
嫁じゃなければ
1日だって
務まらないと
負けずに
突っかかってきた
テントで寝るのが
夢だったなんて
急に言うから
可笑しくて
家でも毎日
張ってやるよと
からかった
ムードもへちまも
ない男だと
おまえはヘソを
曲げたけど
あながち
茶化した
わけじゃない
張ってほしけりゃ
毎日だって
張ってやる
そこで寝たけりゃ
毎晩だって
テントの横で
番しててやる
そう言って
やりたかった
おまえが
ほんとに
そうしたいなら
いつの間にやら
目を閉じて
おまえは
俺の右肩に
くっついて
顔寄せて
赤ん坊みたいに
まあるくなった
その寝顔を
確かめてすぐ
俺は左に
寝返り打った
これ以上
見つめてたら
まちがいなく
気が変になる
こんなに近くに
息づかいだって
感じるのに
体温だって
感じてるのに
肝心かなめの
おまえの心は
ここには
ないんだろ?
勘弁してくれと
叫びたかった
本当は
今すぐにでも
お役御免こうむって
1人で山を
下りたかった
だけど
それすら
許されないなら
観念するしか
ないじゃないか
手のひらに
血がにじむほど
両手の拳を
握りしめて
一晩中
まんじりとも
しなかった
山の小川の
せせらぎと
溢れるような
虫の音だけが
せめてもの
救いだった
作品名:ぶどう畑のぶどうの鬼より 作家名:懐拳