てのひらの魔法
巴月の世界は、極狭い世界で成り立っている。父、母、巴月、妹の陽穂の家族四人で暮らす二階建ての一軒家を拠点とし、その中で私室として宛がわれた七畳程の庭続きの洋室が、巴月が一日の大半を過ごす場所である。庭に続く窓が、数少ない外の景色と巴月とを繋いでいる。母が芝を敷き詰め、季節毎に違った花を植える、丹精を凝らして造り上げた庭を、日がな一日ぼんやりと眺めて過ごす事を、巴月は気に入っていた。
部屋自体の内装は、同じ年頃の女の子の部屋と比べて随分とさっぱりしている。女の子らしい物といえば、窓に備え付けられた純白のレースのカーテンに、大小合わせたウサギのぬいぐるみが二つ、机の上に置かれた小物入れくらいの物で、あとは四方を白で覆った壁に、板張りの床にクリーム色のカーペットを敷き、何の飾り気も無い簡素な勉強机と同じく簡素なベッド、ベッド脇に置かれたスタンド式の小さなデジタル時計、壁に音を立てずに振れる振り子時計があるだけだ。細々とした物は仕舞ってある為に、目に付く物といえばその程度だった。
巴月は生まれつき体が人より丈夫でない。
毎日学校へ通う事すら儘ならず、調子が悪い日が続けば月の大半を部屋のベッドに横たわって過ごす事になる。文字や映像を追い続けると後々になって疲れが出てしまう為、ベッドに横たわって過ごす時は漫然と白い天井を眺めるか、母が丹精を凝らして造り上げた庭を眺めて過ごしている事が多い。その中でも調子が良い時には庭に出てみたりもするのだが、生憎と今は体調を最も崩しがちな季節の変わり目で、少しでも無理をすると風邪を引いて拗らせたり、貧血を起こして倒れてしまう為、ここ暫くは大人しくベッドに横になっている。今更我が身を呪ったところでどうにもならない事は重々承知しているが、部屋に籠って床に伏したままでいると、流石に気分は鬱々としてくるものだ。せめてもの抵抗として冷たい風が入り込んで来るまでは外の空気を感じられるよう窓を開け放してはいるが、吹き抜ける風がいくら部屋の中を通り抜けようとも、部屋や巴月の心に澱んだ暗鬱な空気までは浚っていってはくれない。単調で、退屈で、無機的な、それでいて平穏で、安全で、絶対的な極狭い隔離された世界こそが、巴月の世界だった。そんな色があるようで無い、くすんだ狭い世界で巴月が毒されず、腐る事無く過ごす事が出来るのは、妹の陽穂の存在によるところが大きい。
陽穂は、巴月より五歳下の妹だ。巴月の体が丈夫でない分、人よりも健やかに育ち、病気知らずといった体で常に元気に走り回っているような女の子になった。その陽穂は、魔法が使えるのだった。陽穂自身がそう公言した訳ではなく、勿論両親がそう言った訳でもないが、巴月はそう信じて疑わなかった。空を飛んだり、呪文を唱えて願いを叶えたり、そういう分かり易い魔法とは毛色が違う。陽穂が使う魔法は、もっとささやかなものだ。ささやかで、しかし暗鬱とした巴月の心を晴らすには十分な魔法。そういう意味では、陽穂が纏う底抜けに明るい雰囲気や、屈託の無いあどけない笑顔も、或いは魔法と呼べなくもないのかもしれない。陽穂の存在に、巴月は随分と救われてきた。陽穂の傍で纏う雰囲気に触れ、向けられる笑顔を目にすると、どんなに暗く落ち込んでいる時であってもいつの間にか穏やかな気持ちになれるのである。が、巴月が密やかに魔法と呼んでいるのは、そういった類ともまた違うものだった。陽穂の魔法は陽穂の掌から生まれ、巴月の掌へと伝わるものだった。陽穂は毎日掌から優しい魔法を生み出し、それを穏やかに巴月の掌へと伝えてくれる。巴月は極狭い閉ざされた世界で、毎日陽穂の掌の魔法を待ち焦がれた。そして、今日も。
そろそろだろうか。巴月は胸中でひとりごつる。時刻は十六時半を過ぎようとしている頃で、もし陽穂が誰とも約束をしておらず、真っ直ぐに帰宅するのであれば、もうそろそろ家に帰り着いてもいい頃である。巴月は先程時刻を確認してから一分と経たない内に忙しなくベッド脇に置いたスタンド式の小さなデジタル時計に視線を滑らせた。そして、やはり僅か十数秒しか経過していない現実を目の当たりにし、嘆息を漏らす。時を明確に刻む秒針のリズムを嫌う為、巴月の部屋には秒針が音を立てるタイプの時計は置いていない。ベッド脇の小さなデジタル時計も、壁の振り子時計も、部屋の主に気付かれない様ひっそりと時を刻んでいる。普段は無為に過ぎる時を毛嫌いし、それを知らせる時計になど見向きもしないくせに、この時ばかりは様子が違ってものの数分と経たない内にデジタル時計と振り子時計とをちらちらと交互に見遣る。何度目かのにらめっこの末、もうそろそろだろうかと再び巴月が胸中でひとりごちた丁度その時、玄関から溌剌とした声が響いた。
「ただいまー!」
陽穂の声だ。よく通る陽穂の朗々とした声に、巴月はベッドの中でくすくすと忍び笑いを漏らす。陽穂の声が響くだけで、部屋の中に澱んだ暗鬱とした空気が払拭される様だった。軽快な足音が庭先を駆けて来る。玄関口からは入らず、帰宅するや否や庭に回り込み、庭続きになっている巴月の部屋目がけて一目散に駆けて来るのが陽穂の常だった。日が暮れてからの冷ややかな風は体に障るからと、夕影が落ちる頃には庭続きの窓を閉めるよう両親に言い付けられている。しかし、巴月は帰宅するなりまず庭に回り込んで巴月の部屋を訪れる陽穂を迎える為、陽穂が帰るまでは窓を開け放したままでいるのだった。両親もそれを知っていて敢えて黙認している節がある。両親が何も言ってこないのを良い事に、今日も陽穂は庭から回り込んで巴月の部屋を目指し、巴月も庭続きの窓を開け放したままでいるのだった。尤も、巴月は別にしても、陽穂は一度こうと決めて言い出したら、誰に何を言われようとも頑として聞き入れない性格ではあるのだが。
段々と庭から部屋へと近付いて来る足音を聞き、巴月はベッドの上に横たえていた体を起こす。いくら横になっても、拭えない気だるさが留まる体を起こすのは容易な事ではなかったが、陽穂を迎える為ともなれば少しも億劫には感じなかった。数秒後、開け放した窓からお気に入りの水色のランドセルを背負ったままの陽穂が、息を弾ませて顔を覗かせた。庭だけでなく学校から家までの距離を駆けて来たのか、ぷっくりとした頬がほんのりと上気している。部屋の中を覗き込んで巴月が起きている事を確認すると、あどけない顔に満面の笑みを湛えた。
「おかえりなさい、あきちゃん」
「ただいま、つきちゃん」
部屋自体の内装は、同じ年頃の女の子の部屋と比べて随分とさっぱりしている。女の子らしい物といえば、窓に備え付けられた純白のレースのカーテンに、大小合わせたウサギのぬいぐるみが二つ、机の上に置かれた小物入れくらいの物で、あとは四方を白で覆った壁に、板張りの床にクリーム色のカーペットを敷き、何の飾り気も無い簡素な勉強机と同じく簡素なベッド、ベッド脇に置かれたスタンド式の小さなデジタル時計、壁に音を立てずに振れる振り子時計があるだけだ。細々とした物は仕舞ってある為に、目に付く物といえばその程度だった。
巴月は生まれつき体が人より丈夫でない。
毎日学校へ通う事すら儘ならず、調子が悪い日が続けば月の大半を部屋のベッドに横たわって過ごす事になる。文字や映像を追い続けると後々になって疲れが出てしまう為、ベッドに横たわって過ごす時は漫然と白い天井を眺めるか、母が丹精を凝らして造り上げた庭を眺めて過ごしている事が多い。その中でも調子が良い時には庭に出てみたりもするのだが、生憎と今は体調を最も崩しがちな季節の変わり目で、少しでも無理をすると風邪を引いて拗らせたり、貧血を起こして倒れてしまう為、ここ暫くは大人しくベッドに横になっている。今更我が身を呪ったところでどうにもならない事は重々承知しているが、部屋に籠って床に伏したままでいると、流石に気分は鬱々としてくるものだ。せめてもの抵抗として冷たい風が入り込んで来るまでは外の空気を感じられるよう窓を開け放してはいるが、吹き抜ける風がいくら部屋の中を通り抜けようとも、部屋や巴月の心に澱んだ暗鬱な空気までは浚っていってはくれない。単調で、退屈で、無機的な、それでいて平穏で、安全で、絶対的な極狭い隔離された世界こそが、巴月の世界だった。そんな色があるようで無い、くすんだ狭い世界で巴月が毒されず、腐る事無く過ごす事が出来るのは、妹の陽穂の存在によるところが大きい。
陽穂は、巴月より五歳下の妹だ。巴月の体が丈夫でない分、人よりも健やかに育ち、病気知らずといった体で常に元気に走り回っているような女の子になった。その陽穂は、魔法が使えるのだった。陽穂自身がそう公言した訳ではなく、勿論両親がそう言った訳でもないが、巴月はそう信じて疑わなかった。空を飛んだり、呪文を唱えて願いを叶えたり、そういう分かり易い魔法とは毛色が違う。陽穂が使う魔法は、もっとささやかなものだ。ささやかで、しかし暗鬱とした巴月の心を晴らすには十分な魔法。そういう意味では、陽穂が纏う底抜けに明るい雰囲気や、屈託の無いあどけない笑顔も、或いは魔法と呼べなくもないのかもしれない。陽穂の存在に、巴月は随分と救われてきた。陽穂の傍で纏う雰囲気に触れ、向けられる笑顔を目にすると、どんなに暗く落ち込んでいる時であってもいつの間にか穏やかな気持ちになれるのである。が、巴月が密やかに魔法と呼んでいるのは、そういった類ともまた違うものだった。陽穂の魔法は陽穂の掌から生まれ、巴月の掌へと伝わるものだった。陽穂は毎日掌から優しい魔法を生み出し、それを穏やかに巴月の掌へと伝えてくれる。巴月は極狭い閉ざされた世界で、毎日陽穂の掌の魔法を待ち焦がれた。そして、今日も。
そろそろだろうか。巴月は胸中でひとりごつる。時刻は十六時半を過ぎようとしている頃で、もし陽穂が誰とも約束をしておらず、真っ直ぐに帰宅するのであれば、もうそろそろ家に帰り着いてもいい頃である。巴月は先程時刻を確認してから一分と経たない内に忙しなくベッド脇に置いたスタンド式の小さなデジタル時計に視線を滑らせた。そして、やはり僅か十数秒しか経過していない現実を目の当たりにし、嘆息を漏らす。時を明確に刻む秒針のリズムを嫌う為、巴月の部屋には秒針が音を立てるタイプの時計は置いていない。ベッド脇の小さなデジタル時計も、壁の振り子時計も、部屋の主に気付かれない様ひっそりと時を刻んでいる。普段は無為に過ぎる時を毛嫌いし、それを知らせる時計になど見向きもしないくせに、この時ばかりは様子が違ってものの数分と経たない内にデジタル時計と振り子時計とをちらちらと交互に見遣る。何度目かのにらめっこの末、もうそろそろだろうかと再び巴月が胸中でひとりごちた丁度その時、玄関から溌剌とした声が響いた。
「ただいまー!」
陽穂の声だ。よく通る陽穂の朗々とした声に、巴月はベッドの中でくすくすと忍び笑いを漏らす。陽穂の声が響くだけで、部屋の中に澱んだ暗鬱とした空気が払拭される様だった。軽快な足音が庭先を駆けて来る。玄関口からは入らず、帰宅するや否や庭に回り込み、庭続きになっている巴月の部屋目がけて一目散に駆けて来るのが陽穂の常だった。日が暮れてからの冷ややかな風は体に障るからと、夕影が落ちる頃には庭続きの窓を閉めるよう両親に言い付けられている。しかし、巴月は帰宅するなりまず庭に回り込んで巴月の部屋を訪れる陽穂を迎える為、陽穂が帰るまでは窓を開け放したままでいるのだった。両親もそれを知っていて敢えて黙認している節がある。両親が何も言ってこないのを良い事に、今日も陽穂は庭から回り込んで巴月の部屋を目指し、巴月も庭続きの窓を開け放したままでいるのだった。尤も、巴月は別にしても、陽穂は一度こうと決めて言い出したら、誰に何を言われようとも頑として聞き入れない性格ではあるのだが。
段々と庭から部屋へと近付いて来る足音を聞き、巴月はベッドの上に横たえていた体を起こす。いくら横になっても、拭えない気だるさが留まる体を起こすのは容易な事ではなかったが、陽穂を迎える為ともなれば少しも億劫には感じなかった。数秒後、開け放した窓からお気に入りの水色のランドセルを背負ったままの陽穂が、息を弾ませて顔を覗かせた。庭だけでなく学校から家までの距離を駆けて来たのか、ぷっくりとした頬がほんのりと上気している。部屋の中を覗き込んで巴月が起きている事を確認すると、あどけない顔に満面の笑みを湛えた。
「おかえりなさい、あきちゃん」
「ただいま、つきちゃん」