宵待
とした様子で言う。その声は薄闇の中に優しく揺れて溶けた。それきり言葉を交わさず、彼の人と彼の人の父は黙って縁側に並んで腰を下ろし、蛍が灯りを燈す蛍袋を眺めた。どちらも緩やかな微笑を湛えているに違いなかった。花を隔てていても感じる事が出来る温かな視線が、何よりもその事を物語っている。蛍袋もそんな二人の視線に穏やかに応えている。蛍は懸命に灯りを燈し続けた。花にしがみつく手に力が入らず、ずるりと手が離れてしまう事もあったが、その度に自分を奮い起こして持ち直し、必死に花にしがみついて灯りを燈し続けた。蛍の手が離れる度に蛍袋が不安げな声を上げる。蛍もまたその度に大丈夫です、心配しないで、と繰り返した。今や蛍は蛍袋の為のみならず、自分自身の為にも灯りを燈していた。仲間からも馬鹿にされ、自分自身でも負い目のように感じていた不出来な脆弱な灯りを、温かな灯りだと、優しい灯りだと褒めてくれる人が居た。少し前までの自分には想像する事すら出来なかった。それは何て、何て幸せな事だろう。蛍は生まれて初めて自らを誇らしく思えた。そして、生まれて初めて誇らしく思えた灯りを、そう思わせてくれた人達に少しでも長く見てもらいたかった。この満ち足りた穏やかな時間を、少しでも長く留めていたかった。やっと、彼の人にもう一度微笑んでもらいたいという蛍袋の願いが叶い、蛍の灯りが燈る蛍袋を見たいという彼の人の願いが叶い、彼の人に蛍の灯りが燈る蛍袋を見せたいという彼の人の父の願いが叶い、蛍自身も負い目のように感じていた不出来で脆弱な灯りを誇らしく思える事が出来たのだ。せめて今夜一晩だけでも、命が尽きるその瞬間までは、精一杯灯りを燈し続けていたい。その一心で、蛍は懸命に灯りを燈し続けた。先程よりも更に暗く視界は眩み、体にも思うように力が入らない。何度も気が遠退く度に、もう少し、まだ少しと苦しくなる程繰り返し祈った。彼の人も少しでも長くこの時間の中に留まろうとしていた。時折、夜風は体に障るからと、部屋に戻って休むよう彼の人の父がやんわりと窘めるのだが、彼の人はその度にもう少し、まだ少しと言って頑として聞き入れなかった。恐らくは彼の人が誰かの言葉に逆らってまで自らの意志を通そうとする事は滅多に無い事なのだろう。もう少し、まだ少しとせがむ彼の人に僅かに心配そうな沈黙を向けながらも、彼の人の父もそれ以上は何も言わなかった。そんな事を繰り返しながら、満ち足りた穏やかな時間は蕩々と過ぎていった。夜が更け、薄闇が濃紺に変わり、遂には夜明けの気配が近付き始めた頃、流石に彼の人の父が彼の人に部屋に戻って休むよう強い口調で諫めた。彼の人は酷く残念そうに短く声を詰まらせたが、近付く夜明けの気配を肌で感じている為か、もう父の言葉には逆らわなかった。渋々分かったと頷き、完全に縁側を離れる前に一度立ち止まって振り返ると、蛍が灯りを燈す蛍袋を目に焼き付けるように見つめ、漸く名残惜しそうに縁側を離れた。それを見届けてから彼の人の父ももう一度蛍が灯りを燈す蛍袋を眺め遣り、満足げに縁側を後にした。からからと音を立てて窓硝子が閉められ、人の気配が遠ざかっていく。家に灯っていた明かりも消され、庭に静寂と闇が訪れる。
嗚呼、良かった。最期まで灯りを燈し続ける事が出来た。
蛍は安堵の息と共にそう呟いたつもりだったが、しかし実際にはそれは声にならなかった。いよいよ限界の時だった。張り詰めていた緊張の糸が緩んだ瞬間、急速に蛍の力は失われていった。既に視界は光を失くして暗く沈み、静寂の中でひっそりと耳も遠くなっていく。薄れていく意識の中で、蛍は深い息と共に吐き出される蛍袋の震える声を聞いていた。
「嗚呼、良かった。良かった…。あの方に、やっと灯りが燈った姿をお見せする事が出来た。もう一度、あの方の微笑みを見る事が出来た。あんなに、あんなに嬉しそうに微笑んで頂けた。嬉しい。嬉しい。何て、何て幸せな一日でしょう。ありがとうございます、蛍さん。貴方のおかげで、私はあの方に灯りが燈った姿をお見せする事が出来ました。もう一度、あの方に微笑んで頂く事が出来ました。ありがとう。ありがとう…」
蛍袋の心から嬉しそうな声に、蛍もそっと微笑んだ。
良かったですね。良かったですね。貴女の願いを叶えるお手伝いが出来て、あの方に喜んで頂けて、私も嬉しいです。ありがとう。ありがとう。
蛍はそう口にしたつもりだったが、やはり実際には声にならず、それは緩やかに衰弱していく蛍の胸の内だけで響いた。到頭力を失った手が寄る辺無く蛍袋の花から離れ、それと同時に意識を手放した蛍の体がはたりと冷たい土の上に落ちる。
「……蛍さん?」
蛍袋が呆然と声を上げる。冷たい土の上に横たわる蛍に声を掛けても、もうその声は蛍には届かない。その事に一瞬遅れて気が付いた蛍袋は息を呑み、声を詰まらせた。そして、最後にはさめざめと泣いた。感謝と謝罪と哀惜とを複雑に混ぜ合わせた濡れた声で、横たわる蛍にいつまでもありがとうと言い続けた。蛍袋の涙は夜露となって花を濡らし、滴る雫は蛍が横たわる冷たい土の上にはらはらと降ってその周辺を濡らした。やがて夜が明け、夜露が朝露に変わっても、いつまでもはらはらと降り続け、蛍が横たわる冷たい土を濡らし続けた。