女教師と男子生徒、許されざる愛の果てに~シークレットガーデン
プロローグ〜Secret garden〜
人は誰でも心の奥に秘密の庭を持っている。そこは誰にとっても神聖な場所であり、けして自分以外の人に入り込ませてはならない領域だ。だが、私のその心の庭に大胆にも脚を踏み入れてきた男がいた。
その瞬間まで、私は漸く手に入れたささやかな日々の中で穏やかな時間を紡いでいたのに、彼はいとも容易く、その厚い壁を破り、私の脆い心を覆っていた固い殻を破った。私がこれまで誰一人として立ち入るのを許したことのない心の中へと入り込んできて、忘れられない男性となった。
始まりの試練
心優(みゆ)はドアの前で一旦立ち止まり、深呼吸した。職員室からずっと歩いてきた廊下はこれまでいた学校とは比べものにならないくらい汚れていたが、今はそんな些細なことは気にならない。何しろ、教師生活三年目、二度目の赴任先での第一めなのだから。
心優は常々、思っている。人と人との出逢いは何しろ、第一印象が大切だ。なので、ここれからの一瞬は今後の心優のこの学校での日々を決めるといって良いくらい重要なのだと認識はしている。
前橋心優、二十四歳の誕生日を二ヶ月前に迎えたばかりである。新米教師として過ごした最初の赴任校は私立でも進学校として知られるK高校だった。K高校の生徒たちは皆、大人しくて勉強にも真面目に取り組み、心優の新人教師としての初めての日々は順調だった。
そして二年を経た三年目のこの春、辞令が出てR学園高等部への転勤が決まった。K高校の女の子たちは心優を姉のように慕ってくれたし、男子生徒たちとも隔てない良い関係を築けていた。元赴任先の生徒たちと泣いて別れを惜しんだ送別会の日はまだ記憶に新しい。
だから、正直、教師も三年目となるこのR高校での生活もそれほど心配はしていなかった。
子どもたちも花の世話をするのと同じだ。こちらが心を込めて世話をすれば、その分だけ応えて成長してくれる。心優はそう信じていた。
心優はもう一度小さく息を吸い込み、立て付けの悪い開き戸を開けた。予想外に大きな音を立てたドアを閉め、教壇の前に立つ。それまで耳を覆いたくなるような騒音に包まれていた教室が一瞬だけ静かになった。が、次の瞬間にはどよめきが洩れ、また先刻以上の喧噪が甦る。
心優は唖然としているしかなかった。新しい赴任先が男子校とは聞いていたけれど、まさか、ここまで騒がしいとは。
心優は両手を叩いて生徒の注意をこちらに向けようとした。
「静かにしましょう、もう、とっくに朝礼の時間は始まっていますよ」
R高校は朝八時半から四十分まで朝礼の時間と決まっている。その間に当日の教師から生徒への諸連絡、提出物の収集などを行う。
だが、何故か室内は静かになるどころか、生徒たちは一斉にゲラゲラと笑い出した。心優は内心戸惑いつつも、更に声を張り上げた。
「さあ、立っている人は自分の席に戻って下さい。これから朝礼を始めますよ」
それでも、まだ何人かは立ち上がって思い思いの場所にいたが、大方は仕方なさそうに席に着く。
心優はひきつりそうになる顔に懸命に笑顔を貼り付けた。
「残っている人、座りましょう」
それで四人の中、三人は席に座った。心優は最後の一人となった生徒に視線を向けた。百五十五?の心優と比べたら、見上げるほどの長身だ。恐らく百八十は軽く超えているだろう。
「ええと、長瀬君だったかしら」
心優の唯一の自慢はいまだに視力が両眼ともに1.5であること。数メートル先にいた長身の男子生徒のブレザーのポケットには?長瀬?と名札がついていた。
「長瀬君、今は朝礼の時間です。席に座って下さい」
彼はチッと舌打ちし、踵を履きつぶしたスニーカーを引きずるようにして歩き窓際の最後尾に座った。心優は生徒たちに微笑みかけ、穏やかな声で告げる。
「それでは朝礼を始めます。まずは先生の自己紹介から始めなければならないわね。私は前橋心優といいます。名前の方は少し書くのが判りにくいの」
と、黒板に大きくチョークで?心優?と書いた。
「K高校に二年間いて、ここに来ました。まだ教師になって三年目なので、皆さんに色々と教えて貰う面もあるかと思いますが、よろしくお願いします」
心優はどうしても、あの長瀬という生徒のことが気になった。というのも、彼は心優に席に着くように言われてから、ずっとこちらを挑むように睨みつけたままだからだ。心優は続けた。
「皆さんも二年生になって新しいクラスになったばかりで、まだお互いにお友達についてよく知らないところもあるでしょう。今日の一時間目は自己紹介の時間にします」
心優は国語の古典を主に担当している。今日の一時間目は古典だったから、丁度良い。
「じゃあ、まず先生から色々と聞かせてよ」
最前列の丸顔の生徒が言い、呼応するようにすかさず声が上がった。
「先生の胸って大きいね。何カップ?」
心優はハッとして声のした方を見る。その先にいたのはあの生徒―長瀬だった。
「どうしたの? ねえねえ、教えて」
また別の声、更に長瀬のはやしたてるような声が聞こえた。
「先生って見かけどおり、純情なんだ。もしかして、バージン?」
その声に、どっと教室中が湧き、笑いの渦に包まれた。あまりの話の展開についてゆけない。心優は自分の頬が熱いことに気づいた。
「先生、可愛いね、真っ赤だ。もろ、俺のタイプ。ねえー、放課後にデートしようよ」
また別の声が飛んでくる。心優は言葉を失って立ち尽くした。最早、茫然自失のあまり、誰が何を言っているのすら判らなくなりつつある。
「おい、あんまり虐めるなよ。先生ってば泣きそうになってるぜ」
長瀬がニヤニヤしながら言う。言葉とは裏腹にこの場の状況を愉しんでいるのは丸分かりだ。
「俺って、泣き顔にそそられるタイプ? かーわいい」
またヤジが飛んできて、心優はこれ以上、堪えられなくなった。込み上げそうになる涙を抑えて凜とした声を張り上げる。
「私の話はもうよろしい。あなたたちの自己紹介をして下さいね。それではまず、長瀬大翔(ひろと)君、長瀬君はほんの短い間も黙って座っていられないようだから、あなたから自己紹介をお願いします」
生徒たちは総じて期待を裏切られたらしい、彼らは皆、野次を飛ばされた心優がこのまま泣いて立ち去ると思っていたに違いない。あれほど喧噪に包まれていた教室がふっと嘘のような静けさを取り戻した。
「長瀬大翔君、私の声が聞こえないのですか?」
もう一度呼ぶと、長瀬は緩慢な動作で立ち上がった。
「長瀬大翔、好みは上から90・58・85、ナイスバディの女。顔は佐々木希みたいな子、以上」
「他には? 趣味でやっていることとか、何でもあったら話して。将来の夢とかも良いですよ」
最初のふざけた自己紹介は無視すると、彼はまた例の不敵な笑みを浮かべた。
「ない」
切り捨てるように言い、また席に座った。
また教室がどっと笑いに包まれ、誰かが言った。
「長瀬は良いよなぁ。親父さんがN電機の社長だもん。N電機の社長の奥さんには子どもがいないから、愛人の子でも長瀬が継ぐんだろ」
別の声がすかさす応じる。
人は誰でも心の奥に秘密の庭を持っている。そこは誰にとっても神聖な場所であり、けして自分以外の人に入り込ませてはならない領域だ。だが、私のその心の庭に大胆にも脚を踏み入れてきた男がいた。
その瞬間まで、私は漸く手に入れたささやかな日々の中で穏やかな時間を紡いでいたのに、彼はいとも容易く、その厚い壁を破り、私の脆い心を覆っていた固い殻を破った。私がこれまで誰一人として立ち入るのを許したことのない心の中へと入り込んできて、忘れられない男性となった。
始まりの試練
心優(みゆ)はドアの前で一旦立ち止まり、深呼吸した。職員室からずっと歩いてきた廊下はこれまでいた学校とは比べものにならないくらい汚れていたが、今はそんな些細なことは気にならない。何しろ、教師生活三年目、二度目の赴任先での第一めなのだから。
心優は常々、思っている。人と人との出逢いは何しろ、第一印象が大切だ。なので、ここれからの一瞬は今後の心優のこの学校での日々を決めるといって良いくらい重要なのだと認識はしている。
前橋心優、二十四歳の誕生日を二ヶ月前に迎えたばかりである。新米教師として過ごした最初の赴任校は私立でも進学校として知られるK高校だった。K高校の生徒たちは皆、大人しくて勉強にも真面目に取り組み、心優の新人教師としての初めての日々は順調だった。
そして二年を経た三年目のこの春、辞令が出てR学園高等部への転勤が決まった。K高校の女の子たちは心優を姉のように慕ってくれたし、男子生徒たちとも隔てない良い関係を築けていた。元赴任先の生徒たちと泣いて別れを惜しんだ送別会の日はまだ記憶に新しい。
だから、正直、教師も三年目となるこのR高校での生活もそれほど心配はしていなかった。
子どもたちも花の世話をするのと同じだ。こちらが心を込めて世話をすれば、その分だけ応えて成長してくれる。心優はそう信じていた。
心優はもう一度小さく息を吸い込み、立て付けの悪い開き戸を開けた。予想外に大きな音を立てたドアを閉め、教壇の前に立つ。それまで耳を覆いたくなるような騒音に包まれていた教室が一瞬だけ静かになった。が、次の瞬間にはどよめきが洩れ、また先刻以上の喧噪が甦る。
心優は唖然としているしかなかった。新しい赴任先が男子校とは聞いていたけれど、まさか、ここまで騒がしいとは。
心優は両手を叩いて生徒の注意をこちらに向けようとした。
「静かにしましょう、もう、とっくに朝礼の時間は始まっていますよ」
R高校は朝八時半から四十分まで朝礼の時間と決まっている。その間に当日の教師から生徒への諸連絡、提出物の収集などを行う。
だが、何故か室内は静かになるどころか、生徒たちは一斉にゲラゲラと笑い出した。心優は内心戸惑いつつも、更に声を張り上げた。
「さあ、立っている人は自分の席に戻って下さい。これから朝礼を始めますよ」
それでも、まだ何人かは立ち上がって思い思いの場所にいたが、大方は仕方なさそうに席に着く。
心優はひきつりそうになる顔に懸命に笑顔を貼り付けた。
「残っている人、座りましょう」
それで四人の中、三人は席に座った。心優は最後の一人となった生徒に視線を向けた。百五十五?の心優と比べたら、見上げるほどの長身だ。恐らく百八十は軽く超えているだろう。
「ええと、長瀬君だったかしら」
心優の唯一の自慢はいまだに視力が両眼ともに1.5であること。数メートル先にいた長身の男子生徒のブレザーのポケットには?長瀬?と名札がついていた。
「長瀬君、今は朝礼の時間です。席に座って下さい」
彼はチッと舌打ちし、踵を履きつぶしたスニーカーを引きずるようにして歩き窓際の最後尾に座った。心優は生徒たちに微笑みかけ、穏やかな声で告げる。
「それでは朝礼を始めます。まずは先生の自己紹介から始めなければならないわね。私は前橋心優といいます。名前の方は少し書くのが判りにくいの」
と、黒板に大きくチョークで?心優?と書いた。
「K高校に二年間いて、ここに来ました。まだ教師になって三年目なので、皆さんに色々と教えて貰う面もあるかと思いますが、よろしくお願いします」
心優はどうしても、あの長瀬という生徒のことが気になった。というのも、彼は心優に席に着くように言われてから、ずっとこちらを挑むように睨みつけたままだからだ。心優は続けた。
「皆さんも二年生になって新しいクラスになったばかりで、まだお互いにお友達についてよく知らないところもあるでしょう。今日の一時間目は自己紹介の時間にします」
心優は国語の古典を主に担当している。今日の一時間目は古典だったから、丁度良い。
「じゃあ、まず先生から色々と聞かせてよ」
最前列の丸顔の生徒が言い、呼応するようにすかさず声が上がった。
「先生の胸って大きいね。何カップ?」
心優はハッとして声のした方を見る。その先にいたのはあの生徒―長瀬だった。
「どうしたの? ねえねえ、教えて」
また別の声、更に長瀬のはやしたてるような声が聞こえた。
「先生って見かけどおり、純情なんだ。もしかして、バージン?」
その声に、どっと教室中が湧き、笑いの渦に包まれた。あまりの話の展開についてゆけない。心優は自分の頬が熱いことに気づいた。
「先生、可愛いね、真っ赤だ。もろ、俺のタイプ。ねえー、放課後にデートしようよ」
また別の声が飛んでくる。心優は言葉を失って立ち尽くした。最早、茫然自失のあまり、誰が何を言っているのすら判らなくなりつつある。
「おい、あんまり虐めるなよ。先生ってば泣きそうになってるぜ」
長瀬がニヤニヤしながら言う。言葉とは裏腹にこの場の状況を愉しんでいるのは丸分かりだ。
「俺って、泣き顔にそそられるタイプ? かーわいい」
またヤジが飛んできて、心優はこれ以上、堪えられなくなった。込み上げそうになる涙を抑えて凜とした声を張り上げる。
「私の話はもうよろしい。あなたたちの自己紹介をして下さいね。それではまず、長瀬大翔(ひろと)君、長瀬君はほんの短い間も黙って座っていられないようだから、あなたから自己紹介をお願いします」
生徒たちは総じて期待を裏切られたらしい、彼らは皆、野次を飛ばされた心優がこのまま泣いて立ち去ると思っていたに違いない。あれほど喧噪に包まれていた教室がふっと嘘のような静けさを取り戻した。
「長瀬大翔君、私の声が聞こえないのですか?」
もう一度呼ぶと、長瀬は緩慢な動作で立ち上がった。
「長瀬大翔、好みは上から90・58・85、ナイスバディの女。顔は佐々木希みたいな子、以上」
「他には? 趣味でやっていることとか、何でもあったら話して。将来の夢とかも良いですよ」
最初のふざけた自己紹介は無視すると、彼はまた例の不敵な笑みを浮かべた。
「ない」
切り捨てるように言い、また席に座った。
また教室がどっと笑いに包まれ、誰かが言った。
「長瀬は良いよなぁ。親父さんがN電機の社長だもん。N電機の社長の奥さんには子どもがいないから、愛人の子でも長瀬が継ぐんだろ」
別の声がすかさす応じる。
作品名:女教師と男子生徒、許されざる愛の果てに~シークレットガーデン 作家名:東 めぐみ