正しい在り方
僕はソファーに座りニュースを見ている。この世界の情報を伝えるニュースだ。日本国内のニュースだ。大抵それは季節や天気の情報か、政治の腐敗、汚職か、悲惨な事件についての報道だ。ニュースに教訓なんてものがあったならそれは、この世の大抵の良いことは人生に衝撃を与えやしないということだ。人が死ぬのと同じように、毎日子が生まれる。でもニュースなんかでは、誰も何々の某が何処何処で生まれて、何処何処の誰々が今日で還暦を迎えて、やっと職務から開放され余命を自分のために費やすことが出来るなんて報道はしない。当たり前の幸せなんて何の衝撃にもならない。それじゃあ新聞も売れないし、視聴率は伸びない。だからニュースは世界をひどく歪んだ形で報道し続ける。女子高校生が理不尽に殺され、親が堪え切れない憎悪と悲しさや寂しさに苛まれれば、苛まれるほど、僕が生きている世界との乖離感が滲み上がってくる。個人的な憎悪がまるで一般的な道徳に変っていくさまを彼女を見れば僕は感じるのかもしれない。けれども僕自身の体は、脳は、どうしてもこのニュースに意味を見出せない。教訓もなければ、救いもない。ただ恐怖と不合理の匂いが漂い、僕と僕の生きてる世界との感覚が切られる。そして一つ報道が終わる度、キャスターから一瞬だけ表情が失われ、次の一瞬には新しい表情が灯る。まるで雑技団の早着替えだ。この表情は季節特有の天気を嬉々として語るはにかみ方だ。品が良さそうに唇を動かし、声に温かみをもたせ梅の咲きざまを語っていく。キャスターにとっては殺人も美しい梅も同じなんだろう。顔を変えて話して、頭じゃ昨日やった男のことを考えてる。そんなもんだ。そんなもんだ。人間なんてそんなもんだ。誰かの悲しみを、自身の生活のスパイスにしか見ちゃいない。テレビの前では政治の汚職を、大して詳しく知らないのに、語ってる。皆、どうでもいいことなんだってわかってるんだ。でもそんなこと言ったら、自分と世界が余りにも無関係すぎるから、取り敢えず文句を言ってるだけなんだ。誰だってそうだ。その筈だ。
僕の頭が真っ白な手によって触れられた。
「ねえ、今日仕事じゃないの―?」
「今日は有給を取ったんだ。」
そんなわけはない。有給なんかとってない。嘘だ。
「じゃあ、今日はずっと一緒に居られるんだ。」
「そうだね。やることもないし。」
これは誰も報道しないニュースの一つだ。売れないし、需要がないし、共通項が乏しい情報だ。僕が会社を黙って休んで、彼女といるっていう幸せと恐怖感を報道しただけの話だ。僕の生きてる世界と僕との密接な関わりを感じられる報道だ。この中では個人的な憎悪は何処まで行っても内在しているだけに留まり、世論には成り得ない。世界はひどく歪んでいるかもしれないけれどそれは恣意的で、僕の主観的な歪みだ。どこにも陰謀は存在しない。ただその代わり、教訓なんてないのかもしれない。
遠く見えていた壁に取り付けられたテレビは45インチの大きさを原因として、この部屋にマッチしていると言える。その壁のテレビの右にラファエロの聖母のレプリカが飾られていて、その絵に合わせたように壁のメインカラーは絨毯のような暖かい赤色をしている。僕の座っているソファーはノルウェー製の、女性が履くパンツのような白色で、大きさから言って、成人が四人は座れるであろうと推定できる品だ。彼女はそのソファーの後ろで膝立ちをして僕の短い髪を素手でいじっている。部屋のカーテンはきちんと端でくくられ、外の景色を鮮明に見せる防弾じみた透明の全面ガラスからは、高度何千フィートはあろうかという高さから街を眺望できるようになっている。それは一種の高度恐怖症的殺人に用いられそうなほどの光景だ。この話がサスペンスならそれも有りかもしれない。でもこれは、残念ながら、皆が人生的香辛料に出来るような話じゃない。些細な下らない、オペラのテーマにもならない話だ。部屋は僕のいる部屋を合わせ五部屋ある。このテレビのあるリビングのような共同空間に、僕の部屋、彼女の部屋、寝室に、後はもう使われていない部屋だ。浴室にはシャワーにジャグジー、トイレは玄関付近にある。お決まりの青山的高層住宅だ。下手すれば何十億の世界。僕の家はこのビルの最上階から2つ目のフロアにある。完全セキュリティーに防音設備が保証された物件だ。
断っておくが僕はこの話の中で彼女との出会いや、この家の購入への経緯や、仕事の全容や、彼女の両親の話といった、ドキュメンタリー的な内容を描写する気はない。あくまでこの一日に対する報道だからだ。報道とはいつもその一生という長いテープの中から切り取られたものだ。
彼女が僕の頭をいじり飽きて(彼女は飽き性で、大抵の物事に長い関心を寄せられないという特筆すべき能力の持ち主だ)、共同空間にある黒いピアノ(スタインウェイのやつだ)の前にある黒いピアノ椅子に着席すると(その表現が適切なほどに懇切丁寧で、椅子に敬意さえ示しながら座った)、じっくりと前を見据えた。見据えるだけ見据えて彼女はピアノの前の椅子から立った。丁度そこで朝のニュースが終わり、朝の連続ドラマが始まる。彼女はそのまま立った状態で僕に向かって、声を投げかけた。
「この朝ドラ、面白いんだよ。」
彼女は言った後、走りながら僕のもとに来て、僕の膝に頭をうずめ、ソファーに自分の体を包んでいる純白のワンピースを垂らした。彼女は僕の膝の上でサラサラの茶がかかったストレートの髪をわしゃわしゃと揺らしながら、テレビから流れてくる主題歌を口ずさんだ。歌い終わると気が済んだ様子で、僕のもとから離れ、テレビのある壁とは反対の方に行く。つまりそれはピアノのある方の奥だ。そこにはカウンターテーブルのついたキッチンが有り、彼女はそこに消えていった。
僕はソファーを離れ、スタインウェイの椅子に腰を下ろし、真っ直ぐに前を見据えた。それはとても誠実な仕草であるはずなのだが、彼女の行動の意図が僕には理解できなかった。そうしていると彼女が隠された秘境のキッチンから、目玉焼きとトーストの置かれた周りが金メッキで装飾された上品そうな薄い皿を持ちながら、現れた。
そして僕を見てこう言った。
「アリスの夢はピアニストなの。」
「ジェフは詩人になりたがってたけれど?」
「詩人は生まれながらのものだから。」
「ピアニストは後天的なものなのかな?」
「努力はするだろうけれど、どうだろ考えたことなかった。」
「それは?」
僕は彼女の手にしていた皿に目を向けて言った。
「マリア様からの。」
彼女は皿を敬虔深い紳士がやるような手つきで回した。
「そうだね。僕が対価を払って、マリア様が君に下さった。」
彼女は回すのを止め、僕の目を見た。
「ねえ質問があるの。」
「喜んで。」
「マリア様の夢は?」
マリア様の夢か。僕たちはキリスト教でもなければ、聖母崇拝でもない。だからどうか僕たちを非難しないでくれ。
「多分、今度は大工の夫の子を身篭って、イエスのように時代や人類の生贄にならないように守っていくことじゃないかな。」
「どうして?」
「聖なる母もいいけれど、庶民的な、大工的な母も経験したいんじゃないかな。」
僕の頭が真っ白な手によって触れられた。
「ねえ、今日仕事じゃないの―?」
「今日は有給を取ったんだ。」
そんなわけはない。有給なんかとってない。嘘だ。
「じゃあ、今日はずっと一緒に居られるんだ。」
「そうだね。やることもないし。」
これは誰も報道しないニュースの一つだ。売れないし、需要がないし、共通項が乏しい情報だ。僕が会社を黙って休んで、彼女といるっていう幸せと恐怖感を報道しただけの話だ。僕の生きてる世界と僕との密接な関わりを感じられる報道だ。この中では個人的な憎悪は何処まで行っても内在しているだけに留まり、世論には成り得ない。世界はひどく歪んでいるかもしれないけれどそれは恣意的で、僕の主観的な歪みだ。どこにも陰謀は存在しない。ただその代わり、教訓なんてないのかもしれない。
遠く見えていた壁に取り付けられたテレビは45インチの大きさを原因として、この部屋にマッチしていると言える。その壁のテレビの右にラファエロの聖母のレプリカが飾られていて、その絵に合わせたように壁のメインカラーは絨毯のような暖かい赤色をしている。僕の座っているソファーはノルウェー製の、女性が履くパンツのような白色で、大きさから言って、成人が四人は座れるであろうと推定できる品だ。彼女はそのソファーの後ろで膝立ちをして僕の短い髪を素手でいじっている。部屋のカーテンはきちんと端でくくられ、外の景色を鮮明に見せる防弾じみた透明の全面ガラスからは、高度何千フィートはあろうかという高さから街を眺望できるようになっている。それは一種の高度恐怖症的殺人に用いられそうなほどの光景だ。この話がサスペンスならそれも有りかもしれない。でもこれは、残念ながら、皆が人生的香辛料に出来るような話じゃない。些細な下らない、オペラのテーマにもならない話だ。部屋は僕のいる部屋を合わせ五部屋ある。このテレビのあるリビングのような共同空間に、僕の部屋、彼女の部屋、寝室に、後はもう使われていない部屋だ。浴室にはシャワーにジャグジー、トイレは玄関付近にある。お決まりの青山的高層住宅だ。下手すれば何十億の世界。僕の家はこのビルの最上階から2つ目のフロアにある。完全セキュリティーに防音設備が保証された物件だ。
断っておくが僕はこの話の中で彼女との出会いや、この家の購入への経緯や、仕事の全容や、彼女の両親の話といった、ドキュメンタリー的な内容を描写する気はない。あくまでこの一日に対する報道だからだ。報道とはいつもその一生という長いテープの中から切り取られたものだ。
彼女が僕の頭をいじり飽きて(彼女は飽き性で、大抵の物事に長い関心を寄せられないという特筆すべき能力の持ち主だ)、共同空間にある黒いピアノ(スタインウェイのやつだ)の前にある黒いピアノ椅子に着席すると(その表現が適切なほどに懇切丁寧で、椅子に敬意さえ示しながら座った)、じっくりと前を見据えた。見据えるだけ見据えて彼女はピアノの前の椅子から立った。丁度そこで朝のニュースが終わり、朝の連続ドラマが始まる。彼女はそのまま立った状態で僕に向かって、声を投げかけた。
「この朝ドラ、面白いんだよ。」
彼女は言った後、走りながら僕のもとに来て、僕の膝に頭をうずめ、ソファーに自分の体を包んでいる純白のワンピースを垂らした。彼女は僕の膝の上でサラサラの茶がかかったストレートの髪をわしゃわしゃと揺らしながら、テレビから流れてくる主題歌を口ずさんだ。歌い終わると気が済んだ様子で、僕のもとから離れ、テレビのある壁とは反対の方に行く。つまりそれはピアノのある方の奥だ。そこにはカウンターテーブルのついたキッチンが有り、彼女はそこに消えていった。
僕はソファーを離れ、スタインウェイの椅子に腰を下ろし、真っ直ぐに前を見据えた。それはとても誠実な仕草であるはずなのだが、彼女の行動の意図が僕には理解できなかった。そうしていると彼女が隠された秘境のキッチンから、目玉焼きとトーストの置かれた周りが金メッキで装飾された上品そうな薄い皿を持ちながら、現れた。
そして僕を見てこう言った。
「アリスの夢はピアニストなの。」
「ジェフは詩人になりたがってたけれど?」
「詩人は生まれながらのものだから。」
「ピアニストは後天的なものなのかな?」
「努力はするだろうけれど、どうだろ考えたことなかった。」
「それは?」
僕は彼女の手にしていた皿に目を向けて言った。
「マリア様からの。」
彼女は皿を敬虔深い紳士がやるような手つきで回した。
「そうだね。僕が対価を払って、マリア様が君に下さった。」
彼女は回すのを止め、僕の目を見た。
「ねえ質問があるの。」
「喜んで。」
「マリア様の夢は?」
マリア様の夢か。僕たちはキリスト教でもなければ、聖母崇拝でもない。だからどうか僕たちを非難しないでくれ。
「多分、今度は大工の夫の子を身篭って、イエスのように時代や人類の生贄にならないように守っていくことじゃないかな。」
「どうして?」
「聖なる母もいいけれど、庶民的な、大工的な母も経験したいんじゃないかな。」