農薬の話
3.わたしはなぜ、農薬のない世界を目指すのか
ここまで読んでこられた方は、あるいは、「何だ、結局、肝心なところは解らないんじゃないか」との感想をお持ちかも知れない。その通りなのだ。わたしに言えるのは「一部の人たちは、残留農薬の問題を過剰に評価している。農薬のほんとうの恐さは、もっと別の所にありそうだ。」ということぐらい。本当のところはぜんぜん解らない。つまり、この文章は、「どれぐらい解らないか」を説明しているようなものである。
にもかかわらず、相変わらずわたしは、農薬のない世界を目指すことをやめない。その理由を書こうと思う。つまり、この文章は、ますます、個人的な話になっていく。
人間は、自然界にない、全く新しい化合物を、数十万種、作り出した。
その中で、農薬はつぎのような顕著な特徴を持っている。
1.「いかに効率的に命を奪うか」を目的として開発されていること。
2.それがほかならぬ私たちの「食べ物」のうえに振りかけられていること。
3.それが閉じられた工場や研究所でなく、自然のまっただ中で、ほかの物質と比較できないほど大量にばらまかれていること。
一般に、自然界に存在しない物質を自然界に放出した場合、それがどう振る舞うか、自然にどのような影響を及ぼすかは、原理的に予測できない。しかも、多くの場合、影響が出たとしても、それが何の影響なのかが特定できない。フロンがオゾンホールの原因となり、皮膚ガンの増加をもたらすことが発見されたのは、その貴重な例外である。
いま、世界中で有機農業者が、「農薬がなくても農業は可能である。」ことを実証しつつある。
面積あたりの収量が落ちるから、価格に反映される。しかし、それは2倍までには達しない。わたしは、将来1.5倍以内に収まる、と考えている。
すると、私たちは、ほんの少し安い農産物がほしい、という理由だけで、上記のような危険を冒していることになる。それは、自分が楽をしたい、という理由で、自分達の子ども達への負担を無視する、ということだ。簡単に言えば、未来からの収奪、といってよい。
全く同じ構図が、原子力発電に見ることができる。毎日、大量の危険物が発生していて、しかも、原理的に、毒性を除去できない危険物なのだ。プルトニウムに到っては、半減するのに2万年かかる。自然界に存在する毒物がわずかな期間で分解し無毒化するのに対して、何という違いだろう。安い電力がほしい、楽をしたい、というだけで、私たちは数万年先の子孫に負担を押しつけているのだ。