伝言板
黒板の表面は、縁から中央へ向かうひび割れに、拭い切れないチョークの粉が、白粉をはたいたように詰まっていて、まるで年老いた女の厚化粧のように見えた。中でも、黄色の枠線が消えかけたあたりには、石化した水棲生物の顕微鏡写真のような立体感で、文字の痕跡がのたうっていた。筆跡や、内容が読み取れるのではないかと思われるほど、そうして、いざ読み取ろうと凝視すると、途端に、白く短い虫の群れた屍としか見えなくなるほどの鮮明な曖昧さに、彼はしばらく囚われていたが、やがて、「時差のせいだ」と呟いて煙草をくゆらせ始めた。
かつて、この駅を毎日利用していた頃、彼は改札を抜けるたびに、伝言板を確認する習慣を持っていた。まだ携帯電話が普及する前の話である。だから、久しぶりに訪れたこの駅で、無意識のうちに目に留めた伝言板が、まだ現役で活用されているという事自体が、彼にとっては一つの驚きだった。
伝言板に伝言を残すということは、本人が、つい先ほどまでこの駅にいたという証明でもある。待てない理由があり、後ろ髪を引かれる思いで、人は伝言板に思いを託して立ち去る。一方、伝言を受け取るのは、常に、約束を破った者だ。電車を降りて、相手の顔を必死で探しながらも見つからず、不安と後悔とに苛まれながら、最後の頼みとして伝言板にすがる。そこに相手の文字を見つけたとき、許しと平安とを与えられるのである。いちいち署名を確認するまでもなく、伝言を受け取る者は、自分に宛てられた伝言を発見するだろう。そこにあるのは、単なる伝言ではない。相手が残して行った思いとはつまり、待ちつづける者の分身なのだ。
彼には伝言板に伝言を残して行ってくれる相手などいなかった。それでも誰かを必要とし、待ちつづけるという思いが陳列されたこの黒板の中に、もしかして、自分を待っているものがあるのではないかとの幻想に取りつかれていた。「向かいの喫茶店で待ってます」との伝言を見てその喫茶店にいき、紅茶の冷めるのも気づかぬままに、じっと窓の外をみつめているベレー帽の女性を発見したりもした。その時彼は、彼女を待たせる男(それは男であるに違いない)を憎み、自分ならそんな不実な事はしないのにと、正義感を発揮したりした挙句、遅れてきた男を見つけた彼女の表情の、劇的な変化に打ちのめされたりもした。
いつしか彼は伝言を残すようになっていた。
「前の喫茶店で待っています」「昨日の約束は無し」「明後日もう一度来てください」
それらは、受け手の無い伝言だった。彼は伝言を残した通りの場所で待ちつづけた。来るはずの無い誰か。自分と同じように孤独な誰かを。
――宛名の無い伝言は、トイレの落書き以下だ。
彼は、十数年前の自分がいかに病んでいたのかを改めて知った。当時はそうしなければ生きて行けなかったのだとも思う。だが、本当にそうだったのだろうか……
背後から激しい咳が近づいてきた。彼は、何も書かれていない伝言板の前に、ずいぶん長いこと佇んでいたのだということに気づき、近づいてくるのが、年老いた駅員だということが分かると、言わずもがなの弁明を口にしていた。
「久しぶりに戻ってきたら、まだ伝言板が残っていたので、つい懐かしくなりました」
駅員は手のひらに納まってしまう程小さな黒板消しと、真新しいチョークを用意しながら、幾度も頷いた。
「伝言板には人の念がこめられております。私はもう長いことこの伝言板の管理をしてきましたが、相手に伝わらなかった伝言ほど、痕が残るものでしてね。同じチョークで、同じ強さで書いてあっても、すぐ消えるものとそうでないものがあるのです。それでも、時間がきたら、全部消してしまわなければならん。申し訳無いような気持ちになりましてね、つい手を合わせてしまいます」
彼は、なんとなく決まりがわるかった。きっと自分の病んだ精神が残した伝言も、この老人の心を圧迫したにちがいなかったからだ。やがて、老人はチョークを取ると、もっとも痕跡を多く残した欄を舐めるように見つめながら、文字を書き入れ始めた。彼は老人が少し精神をやられているのではないかと疑い、思わず老人の肩に手を置いて尋ねた。
「何をなさっているんです。それは誰にあてた伝言なのですか」
老人が鋭い目つきで文字を幾度も検分し、止めやはらいの角度、筆圧などを確認し終えて、彼の方へ向き直ったとき、老人の背中で隠れていた文字が彼の目に入った。
「終点で、待っています」
彼は老人の肩から慌てて手を外した。その文字の癖、そしてこの伝言は……
老人は彼の狼狽に気づかぬように、話し始めた。
「この伝言が残っていたのは、もう終電が出てしまった後だった。時間がきて消そうとしたら、お嬢さんが歩いてきた。そして、『この伝言は消さないで下さい。相手に伝わったら、きっと連絡しますから、それまでどうか、待っていてください』と思いつめた顔で、頼まれました。そう。消してしまうことは出来ませんでした。それどころか、字が消えかけたらもう気になってしまって、上からなぞらなくちゃ悪いような気がしてきて。いつか、あのお嬢さんから連絡が来るかもしれないでしょう」
この老人は、自分を罰しているのだと、彼は直感した。相手に見つけられないまま消されて行った、伝言に対する供養のつもりなのだ。あの伝言を残したのは、他でもない、十数年前の彼だった。
「僕が、終点に行ってきます。女の子がいたら、この伝言とそれを守りつづけている貴方の事を伝えておきます。もしだれもいなかったら、その時はもう、この伝言の役目は終わっているということです。待っている人がいない伝言なんて、意味がないでしょう。どっちにしても、貴方はもう長い間この伝言を、そのお嬢さんの思いを守ってこられたんです。もう十分なはずです」
「しかし、これから終点にいってはいつ戻ってこられるか分かりませんよ。雪も降り始めているし、見ず知らずの方にそんな役目をお願いすることは出来ません」
「いえ、私は以前、この駅を毎日利用していた者ですし、この伝言板に、助けられた者です。何かの縁です。きっとご報告に戻ります」
鉛色の空の下、針葉樹林に被われた山深くへと、電車は進んで行った。終点にはもう雪が積もり始めていた。乗ってきた電車が折り返して出ていった後、ホームに残った彼のためだけに、アナウンスが流れた。
雪のため、これ以降の電車の運転を見合わせる、という内容だった。
乗降客もまれな終点のプラットホームの中ほどに改札がある。無人駅特有の、切符を入れる箱には、彼の切符が一枚あるだけだ。待合にはストーブもなく、駅前にはタクシーも、店もなかった。そうして、宵闇の空から、無数の雪がなぐりつけるように降りしきっていた。彼は待合室にぶらさがっている伝言板を見つけた。照明もない待合の壁にかけられた伝言板には、一つの伝言が、闇をすかしてくっきりと浮かび上がっていた。
「待っていてください。すぐに戻ります」
彼は伝言板の前に立ち尽くした。雪はますます激しく、明かり一つない深い針葉樹林の暗い緑を白く被い尽くしていった。