足りない世界
大喰らいのあいつのために、たびたびあの人がケースの中にコオロギを数匹放っていたのを見たことがある。けれど、私はこの部屋で一度もコオロギの鳴き声を聴くことはなかった。消えてしまうのだ、いつの間にか。食べてしまうのだ、私の気づかぬ間に、クモが。
あの人は、このクモは臆病なんだと言った。クモに臆病なんてあるの、私はそう思ったけれど口にはしなかった。コオロギをケースへ放つ時のあの人の顔は忘れがたい。慈しみや優しさという言葉がとてもよく似合う、そういう表情だった。
アクリルケースに放されるコオロギは、どれも殉教者のような振る舞いを見せた。きっと自らに訪れる運命を悟っていたんだと思う。子どもの頃茂みでみかけたようなのとは全然違う。飛び跳ねたり、カサカサ動き回ったりもせずに、ただ静かに触覚を揺らしていた。
そうして、時々思い出したように肢を動かして、ゆっくりと小さな森の中に消えていく。私の指の先ほどの大きさのコオロギたちにとって、掌ほどのクモはどういう生き物に映るのだろう。クモの牙にかかり、消化液を注ぎ込まれる時、コオロギは何を感じるのだろう。そしてクモは、自らに差し出された生餌を前に、思うところはあるのだろうか。
ぼんやりケースを眺めながら、考え事はとりとめなく渦巻いていく。それはそうだ、この部屋では食べるか寝るか考え事をするか、それくらいしかやることがない。
と、そのとき、ケースの中で何かが動いた。
思わず目を見張る。
アクリルに映りこんだ私の目も見開いている。
クモだった。
二対の肢を振り上げて、鎌の様にこちらへ向けている。油膜に覆われているかように、てらてらと二本の牙の先が光る。八つあるという眼はこちらからは見えないが、仰け反るようにして威嚇する肢の間から、メレンゲを固めたような白い塊と、毛に覆われた腹が見え隠れする。
醜い。
あの人が世話する横でみかけたことはあっても、まじまじと見るのはこれが初めてだった。初めて対峙する森の主は、巨大で、力強く、威厳に満ちて、そして、醜怪だった。
睨み合うことしばらくして、窓から差し込む光の向きが変わったのがはっきりわかるくらいしばらくして、私はぼんやりしたまま立ち上がった。部屋の隣の台所へ向かう。清潔に磨き上げられたステンレスのシンクの脇、さして使った試しのない果物ナイフを手に取る。
アクリルケースの横に佇むと、相変わらずクモが私の方を向いていた。先ほどまでと違って見上げる形になるこいつは、ひっくり返りそうなくらいに身体をそらせて肢を伸ばしている。
ナイフの柄の先をつまむようにして持つ。重力にしたがって、切っ先がちょうど真下を向く。私はそのまま腕をアクリルケースの上に伸ばして、指を離した。
さくり、小さく土の削れる音が耳に届く。ケースに目を向けると、私の手を離れた果物ナイフがまっすぐ地面に突き刺さっていた。クモの頭と、メレンゲの塊を貫いて。
クモは肢をびくびくと蠢かせている。人の痙攣などと違い、確かな意思を感じさせる。まだ私を威嚇しているのだろう。一対の牙が、獲物を探すかのように閉じたり開いたりしている。
メレンゲの方はというと、こちらはもはや原型をとどめていなかった。ナイフの刺さった場所から裂け目が広がり、中身がまろび出ている。クリーム色の団子のような、無数の小さな丸い物体が地面を覆っていく。
ぽろぽろ、ぽろぽろ。ころころ、ころころ。
クモの腹の下で、白糸で編んだような絨毯が拡がっていく。
やがてクモは布団の上で身を休めるかのように体勢を戻した。ナイフは変わらず頭を貫いたままだ。頭が動くにしたがって、斜塔のように傾いでいく。
ナイフを取ろうとして、地面に伏したクモと目が合った。毛に覆われてはっきりとはしないが、確かに八つ、鈍く光を返している。私はナイフを取る手を止めた。くるりとケースに背を向けて、対角線上の観葉植物の鉢の脇に腰を下ろす。
しゃがみこんでアクリルケースに目を向けると、やはり私の顔が映った。隣にクモの頭も並んでいる。
あの人が見たらなんて言っただろうか、私の頭はそんなことを考えている。
クモの牙がむくりと動いた、気がした。どこからともなくコオロギの鳴く声が耳に響いた。