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あおい潮騒

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そうやって日々無気力に自堕落に無防備に生きていた俺が、死を目前にしてその機会を取り上げられるということは一体どういうことなのだろうか。

日々をまっとうに生きる人々に甚だ失礼ではないか、ただただ俺はそれだけを思いながら国へ帰ってきた。

忠誠心とはなんなのだろう。どうしてその心のためだけに死ねるのだろう。

そんな風に生きている人びとの世界はなんと色鮮やかで暖かなことだろう。

「ねえ、これ、うみのおと、する?」

少年が巻貝を押し付けてくる。
巻貝を耳に当てて音がするのは貝の中で反響する風の音であり海の音、即ち波のさざめきとは異なるものなのだ。

「海の音では、ない」

それだけを少年に告げると少年は少しだけぽかんとした後に、酷くつまらなさそうな顔をした。

「それは、つまらないねえ」

つまるか、つまらないか、それだけでものを考えたことがなかった。少年の頭はなんと平和なことだろう。
世の中がつまるか否かだけで動いていたとしたらきっと俺も死を意識することもなかったし死を目前にすることもなかったのだ。

ああ、それでも少年は巻貝の中を覗き込んで難しい顔をした。
きっと彼の周りの大人は解決しがたい問題に直面した時にああいった顔をするのだろう。

「でもね、ぼくにはこれは、うみのおとにきこえるよ」

少年はそう言った。少しだけ困ったように眉尻を下げて。

「おとなにはこれは、かぜのおとに、きこえるかもしれないけど、ぼくには、そうはきこえないもの」

科学的な根拠ではなく、自分がどう思うか。大事なのはそれなのだと少年は言う。まるで大人のように難しい顔をするが言ってることはただの屁理屈だ。

「そうかなあ」

その日は特に何も考えずにそれだけの会話で帰ってきた。
少年は一体どこの家の子供なのか、誰の子供なのかはわからない。ただ、海に居た。それだけである。

俺の町は空襲で大きな被害を受けた。
戦争の終わったあとはそれは酷い有様だった。家は燃え草木は燃え人は燃え、何もかもが灰燼へと姿を変えて、その身をもって当時の凄惨さを伝えているようだった。
この中に、生きたい、死にたくないと思った人びとがどれだけ居ただろうか。

平坦なだけの俺の心よりもどれほど複雑で、厄介でたくさんの温度と色とにおいで構成されていた人びとの心も、今は胸につかえるような煙と、煤と灰と燃えさしだけになってしまったのだ。

この世界のなんと不平等なことか!

喜怒哀楽の単純な感情すら無い俺が、生きていても死んでいてもどちらもさほど大差ないこの俺が生きているのに、何故苦悩し喜び怒り悲しむ彼らを殺すのだろう。

「このすなは、ふむと、なくんだよ」

鳴き砂、を少年は知っているようだった。
足で踏むと硝子をこすったような音が出るのだ。

悲しげに聞こえるからか、野鳥のそれに聞こえるからか、理由は知らないが、故に鳴き砂と。

俺が黙って少年の白い不健康そうな細い足のとなりを下駄で踏みしめてやると、少年はこれ以上に無いかのような笑顔を俺に見せた。

昨日と同じくいくばくかも射さない太陽の光はどんよりとした空気をどこかへ押しやる元気はどこにも無いらしくただただ弱々しく波を照らすだけだった。
どんよりとした厚い雲と肩にのしかかるような密度の濃い空気が、数時間後の雨を予告しているようだった。

少年が喜び勇んで足踏みする横に、俺はこうもり傘を持ってただ立っているだけだった。

いつの日か同輩の沈んだはずのその海は、

「おにいさんの、なまえ、なんていうの」

「日向」

「ひゅ、う、が?」

俺が黙って頷くと少年は嬉しそうに笑った。何がそんなに嬉しいのかどうにも俺には理解できそうになかった。

「ぼく、いせ。い、せ」

「いせ・・・伊勢?」

漢字を砂浜に指でなぞって書いても少年が首を傾げるばかり。
たぶん、これ。となぞられた漢字を指差して笑った少年はまたその足で鳴き砂を踏んだ。手には昨日の巻貝がしっかりと握られていた。

捨てないで取っておいたのか、珍しく俺がその少年について考えたことだった。

「うみはあおくてきれい」

次の日の少年は何かに耳を傾けるわけでもなく、俺の姿を見るとそれだけ言った。
俺にはそのあおさがわからない。海があおい理由も、あおいから綺麗だという理屈も、海が綺麗だという理屈も。

俺が黙っているとやはり少年は俺が気付かなかったのだと思って繰り返し、幼子に言い含めるように言った。

「うみは、あおくて、きれい」

「・・・そうか、そうだな」

俺がやっとのことでそれだけ言うと少年は何も言わずに、笑うこともなくそのままふいと目を海に向けた。

少年がどう思っているのかわからない。何を考えているのかも、何を感じているのかも。
俺にはわからないことだらけだ。

土の色も、海のあおさも雲の白さも、桜の薄桃色とか向日葵の黄色いのと言われたって俺には全くわからない。
何も見えてないからなのか、何も見ようとしていないからなのか、理由も理屈もさっぱりわからなかった。

「おにいさんの、め、も、きれい」

俺の目ではない。海のあおさでもない。きれいなのは、本当にきれいなのは。



長々と続いていた雨もようやく終わる気配を見せてきた季節になった。
雲が晴れ、太陽がここぞとばかりに辺りを照らす。じりじりとした日差しが妙に眩しく感じた。

少年はもう、海岸には居なかった。

海岸の少年は、隣の隣の家に疎開してきていたこどもなのだと知った。
毎日毎日懲りもせずに雨季の海に出かけていたその少年は、少し前に大病を患い今でも耳が聞こえない病に犯されているのだという。

俺に言えることは、それでも確かにあの少年は巻貝から海の音を聞いていたはずだし、あの白い不健康そうな足から砂の鳴くのを聞いたはずだ、ということだけだ。
こどもながらのきらきらとしたその感性と、想像力を殺さぬまま、あどけない心とたどたどしい音でそれを無色の俺に紡いだのだ。

そうやって、ただただ静かに少年は、風を連れて雲を連れて雨を連れて、俺の知らない何処かへと去っていくのだ。

嗚呼、冷たく澄んだ俺の心に、極彩色の風を吹かせたまま。
作品名:あおい潮騒 作家名:中川環