あおい潮騒
ただただ静かに海の波が押しては返し押しては返し、岩に波のぶつかる音がはじけては消えはじけては消え、少年は涼しく冷たくどんよりとした雲を連れてどこかへと去っていくのだ。
「これってね、うみのおとが、するんだよ」
そう言った少年の手にあるのは巻貝だった。どこにでもある、ごくごく普通の巻貝。
たどたどしくそれだけ言ったその少年は何が嬉しいのかにこにこと笑ってみせた。
六月の海は冷たい。
雨季特有のあの冷たく湿った重たい風が背中から足をさらうように吹き抜けていく。何か、大事なものを持って行ってしまうようなその風が尚更不安を煽る。
軽いとは言い難いその足音は毎日毎日行く宛ても無く俺を海へ運ぶのだった。
「これってね、うみの、おとが、するんだよ」
俺に聞こえていないとでも思ったのか、その少年はさきほどよりも大きな声で、それでもたどたどしい発音ではあったが確かにそう言った。俺がそうか、と頷いてやると今度こそ少年はこぼれ落ちてしまいそうなほど目を大きく見開かせてにこにこと笑うのだ。
その笑顔がどうにもこの海と、この季節と、俺には見合わない気がして、ついつい俺は目を反らしてしまった。
少し前のことだった。本当に、少し前のことだったのだ。
日本は戦争に負けた。ラジオで、天皇陛下がそういう声明を発表したからである。
俺はちょうど、お国の作った戦闘機に、片道分の燃料しか入れていないその戦闘機に乗って敵軍へ突っ込むところだったのである。戦争に負けたことで俺はその任務を解除された。
残念だったのか、それでよかったのか、俺には理解できなかった。一番に自分のことを理解してやれるのは自分ではなかったのだ。
結局それが誰だったのか、特にそれは問題ではなかったと思う。
理解する必要がなかったからだ。自分が何者であるかを、意思はどこへむかっているのかを。
そうやって日々無気力に自堕落に無防備に生きていた俺が、死を目前にしてその機会を取り上げられるということは一体どういうことなのだろうか。
日々をまっとうに生きる人々に甚だ失礼ではないか、ただただ俺はそれだけを思いながら国へ帰ってきた。
忠誠心とはなんなのだろう。どうしてその心のためだけに死ねるのだろう。
そんな風に生きている人びとの世界はなんと色鮮やかで暖かなことだろう。
「ねえ、これ、うみのおと、する?」
少年が巻貝を押し付けてくる。
巻貝を耳に当てて音がするのは貝の中で反響する風の音であり海の音、即ち波のさざめきとは異なるものなのだ。
「海の音では、ない」
それだけを少年に告げると少年は少しだけぽかんとした後に、酷くつまらなさそうな顔をした。
「それは、つまらないねえ」
つまるか、つまらないか、それだけでものを考えたことがなかった。少年の頭はなんと平和なことだろう。
世の中がつまるか否かだけで動いていたとしたらきっと俺も死を意識することもなかったし死を目前にすることもなかったのだ。
ああ、それでも少年は巻貝の中を覗き込んで難しい顔をした。
きっと彼の周りの大人は解決しがたい問題に直面した時にああいった顔をするのだろう。
「でもね、ぼくにはこれは、うみのおとにきこえるよ」
少年はそう言った。少しだけ困ったように眉尻を下げて。
「おとなにはこれは、かぜのおとに、きこえるかもしれないけど、ぼくには、そうはきこえないもの」
科学的な根拠ではなく、自分がどう思うか。大事なのはそれなのだと少年は言う。まるで大人のように難しい顔をするが言ってることはただの屁理屈だ。
「そうかなあ」
その日は特に何も考えずにそれだけの会話で帰ってきた。
少年は一体どこの家の子供なのか、誰の子供なのかはわからない。ただ、海に居た。それだけである。
俺の町は空襲で大きな被害を受けた。
戦争の終わったあとはそれは酷い有様だった。家は燃え草木は燃え人は燃え、何もかもが灰燼へと姿を変えて、その身をもって当時の凄惨さを伝えているようだった。
この中に、生きたい、死にたくないと思った人びとがどれだけ居ただろうか。
平坦なだけの俺の心よりもどれほど複雑で、厄介でたくさんの温度と色とにおいで構成されていた人びとの心も、今は胸につかえるような煙と、煤と灰と燃えさしだけになってしまったのだ。
この世界のなんと不平等なことか!
喜怒哀楽の単純な感情すら無い俺が、生きていても死んでいてもどちらもさほど大差ないこの俺が生きているのに、何故苦悩し喜び怒り悲しむ彼らを殺すのだろう。
「このすなは、ふむと、なくんだよ」
鳴き砂、を少年は知っているようだった。
足で踏むと硝子をこすったような音が出るのだ。
悲しげに聞こえるからか、野鳥のそれに聞こえるからか、理由は知らないが、故に鳴き砂と。
俺が黙って少年の白い不健康そうな細い足のとなりを下駄で踏みしめてやると、少年はこれ以上に無いかのような笑顔を俺に見せた。
昨日と同じくいくばくかも射さない太陽の光はどんよりとした空気をどこかへ押しやる元気はどこにも無いらしくただただ弱々しく波を照らすだけだった。
どんよりとした厚い雲と肩にのしかかるような密度の濃い空気が、数時間後の雨を予告しているようだった。
「あおい潮騒」 - 即興小説トレーニング
ただただ静かに海の波が押しては返し押しては返し、岩に波のぶつかる音がはじけては消えはじけては消え、少年は涼しく冷たくどんよりとした雲を連れてどこかへと去っていくのだ。
「これってね、うみのおとが、するんだよ」
そう言った少年の手にあるのは巻貝だった。どこにでもある、ごくごく普通の巻貝。
たどたどしくそれだけ言ったその少年は何が嬉しいのかにこにこと笑ってみせた。
六月の海は冷たい。
雨季特有のあの冷たく湿った重たい風が背中から足をさらうように吹き抜けていく。何か、大事なものを持って行ってしまうようなその風が尚更不安を煽る。
軽いとは言い難いその足音は毎日毎日行く宛ても無く俺を海へ運ぶのだった。
「これってね、うみの、おとが、するんだよ」
俺に聞こえていないとでも思ったのか、その少年はさきほどよりも大きな声で、それでもたどたどしい発音ではあったが確かにそう言った。俺がそうか、と頷いてやると今度こそ少年はこぼれ落ちてしまいそうなほど目を大きく見開かせてにこにこと笑うのだ。
その笑顔がどうにもこの海と、この季節と、俺には見合わない気がして、ついつい俺は目を反らしてしまった。
少し前のことだった。本当に、少し前のことだったのだ。
日本は戦争に負けた。ラジオで、天皇陛下がそういう声明を発表したからである。
俺はちょうど、お国の作った戦闘機に、片道分の燃料しか入れていないその戦闘機に乗って敵軍へ突っ込むところだったのである。戦争に負けたことで俺はその任務を解除された。
残念だったのか、それでよかったのか、俺には理解できなかった。一番に自分のことを理解してやれるのは自分ではなかったのだ。
結局それが誰だったのか、特にそれは問題ではなかったと思う。
理解する必要がなかったからだ。自分が何者であるかを、意思はどこへむかっているのかを。
「これってね、うみのおとが、するんだよ」
そう言った少年の手にあるのは巻貝だった。どこにでもある、ごくごく普通の巻貝。
たどたどしくそれだけ言ったその少年は何が嬉しいのかにこにこと笑ってみせた。
六月の海は冷たい。
雨季特有のあの冷たく湿った重たい風が背中から足をさらうように吹き抜けていく。何か、大事なものを持って行ってしまうようなその風が尚更不安を煽る。
軽いとは言い難いその足音は毎日毎日行く宛ても無く俺を海へ運ぶのだった。
「これってね、うみの、おとが、するんだよ」
俺に聞こえていないとでも思ったのか、その少年はさきほどよりも大きな声で、それでもたどたどしい発音ではあったが確かにそう言った。俺がそうか、と頷いてやると今度こそ少年はこぼれ落ちてしまいそうなほど目を大きく見開かせてにこにこと笑うのだ。
その笑顔がどうにもこの海と、この季節と、俺には見合わない気がして、ついつい俺は目を反らしてしまった。
少し前のことだった。本当に、少し前のことだったのだ。
日本は戦争に負けた。ラジオで、天皇陛下がそういう声明を発表したからである。
俺はちょうど、お国の作った戦闘機に、片道分の燃料しか入れていないその戦闘機に乗って敵軍へ突っ込むところだったのである。戦争に負けたことで俺はその任務を解除された。
残念だったのか、それでよかったのか、俺には理解できなかった。一番に自分のことを理解してやれるのは自分ではなかったのだ。
結局それが誰だったのか、特にそれは問題ではなかったと思う。
理解する必要がなかったからだ。自分が何者であるかを、意思はどこへむかっているのかを。
そうやって日々無気力に自堕落に無防備に生きていた俺が、死を目前にしてその機会を取り上げられるということは一体どういうことなのだろうか。
日々をまっとうに生きる人々に甚だ失礼ではないか、ただただ俺はそれだけを思いながら国へ帰ってきた。
忠誠心とはなんなのだろう。どうしてその心のためだけに死ねるのだろう。
そんな風に生きている人びとの世界はなんと色鮮やかで暖かなことだろう。
「ねえ、これ、うみのおと、する?」
少年が巻貝を押し付けてくる。
巻貝を耳に当てて音がするのは貝の中で反響する風の音であり海の音、即ち波のさざめきとは異なるものなのだ。
「海の音では、ない」
それだけを少年に告げると少年は少しだけぽかんとした後に、酷くつまらなさそうな顔をした。
「それは、つまらないねえ」
つまるか、つまらないか、それだけでものを考えたことがなかった。少年の頭はなんと平和なことだろう。
世の中がつまるか否かだけで動いていたとしたらきっと俺も死を意識することもなかったし死を目前にすることもなかったのだ。
ああ、それでも少年は巻貝の中を覗き込んで難しい顔をした。
きっと彼の周りの大人は解決しがたい問題に直面した時にああいった顔をするのだろう。
「でもね、ぼくにはこれは、うみのおとにきこえるよ」
少年はそう言った。少しだけ困ったように眉尻を下げて。
「おとなにはこれは、かぜのおとに、きこえるかもしれないけど、ぼくには、そうはきこえないもの」
科学的な根拠ではなく、自分がどう思うか。大事なのはそれなのだと少年は言う。まるで大人のように難しい顔をするが言ってることはただの屁理屈だ。
「そうかなあ」
その日は特に何も考えずにそれだけの会話で帰ってきた。
少年は一体どこの家の子供なのか、誰の子供なのかはわからない。ただ、海に居た。それだけである。
俺の町は空襲で大きな被害を受けた。
戦争の終わったあとはそれは酷い有様だった。家は燃え草木は燃え人は燃え、何もかもが灰燼へと姿を変えて、その身をもって当時の凄惨さを伝えているようだった。
この中に、生きたい、死にたくないと思った人びとがどれだけ居ただろうか。
平坦なだけの俺の心よりもどれほど複雑で、厄介でたくさんの温度と色とにおいで構成されていた人びとの心も、今は胸につかえるような煙と、煤と灰と燃えさしだけになってしまったのだ。
この世界のなんと不平等なことか!
喜怒哀楽の単純な感情すら無い俺が、生きていても死んでいてもどちらもさほど大差ないこの俺が生きているのに、何故苦悩し喜び怒り悲しむ彼らを殺すのだろう。
「このすなは、ふむと、なくんだよ」
鳴き砂、を少年は知っているようだった。
足で踏むと硝子をこすったような音が出るのだ。
悲しげに聞こえるからか、野鳥のそれに聞こえるからか、理由は知らないが、故に鳴き砂と。
俺が黙って少年の白い不健康そうな細い足のとなりを下駄で踏みしめてやると、少年はこれ以上に無いかのような笑顔を俺に見せた。
昨日と同じくいくばくかも射さない太陽の光はどんよりとした空気をどこかへ押しやる元気はどこにも無いらしくただただ弱々しく波を照らすだけだった。
どんよりとした厚い雲と肩にのしかかるような密度の濃い空気が、数時間後の雨を予告しているようだった。
「あおい潮騒」 - 即興小説トレーニング
ただただ静かに海の波が押しては返し押しては返し、岩に波のぶつかる音がはじけては消えはじけては消え、少年は涼しく冷たくどんよりとした雲を連れてどこかへと去っていくのだ。
「これってね、うみのおとが、するんだよ」
そう言った少年の手にあるのは巻貝だった。どこにでもある、ごくごく普通の巻貝。
たどたどしくそれだけ言ったその少年は何が嬉しいのかにこにこと笑ってみせた。
六月の海は冷たい。
雨季特有のあの冷たく湿った重たい風が背中から足をさらうように吹き抜けていく。何か、大事なものを持って行ってしまうようなその風が尚更不安を煽る。
軽いとは言い難いその足音は毎日毎日行く宛ても無く俺を海へ運ぶのだった。
「これってね、うみの、おとが、するんだよ」
俺に聞こえていないとでも思ったのか、その少年はさきほどよりも大きな声で、それでもたどたどしい発音ではあったが確かにそう言った。俺がそうか、と頷いてやると今度こそ少年はこぼれ落ちてしまいそうなほど目を大きく見開かせてにこにこと笑うのだ。
その笑顔がどうにもこの海と、この季節と、俺には見合わない気がして、ついつい俺は目を反らしてしまった。
少し前のことだった。本当に、少し前のことだったのだ。
日本は戦争に負けた。ラジオで、天皇陛下がそういう声明を発表したからである。
俺はちょうど、お国の作った戦闘機に、片道分の燃料しか入れていないその戦闘機に乗って敵軍へ突っ込むところだったのである。戦争に負けたことで俺はその任務を解除された。
残念だったのか、それでよかったのか、俺には理解できなかった。一番に自分のことを理解してやれるのは自分ではなかったのだ。
結局それが誰だったのか、特にそれは問題ではなかったと思う。
理解する必要がなかったからだ。自分が何者であるかを、意思はどこへむかっているのかを。