三部作『三猿堂』
おしおき残業を終えて会社を出たのは6時過ぎ、夏の日はまだ陽が沈まない。みなみは約束の時間に間に合うように駆け足で駅ビルの方へ駆け出す。
ところが、走り出してすぐににわか雨が降ってきた。最初は濡れても構わないほどの雨量が次第に強くなり、夕立みたいになってにっちもさっちもいかない。みなみはとりあえず一番近くに見えるひさしのある建物に駆け寄って雨宿りをすることにした。
「ふぅ……」
みなみは一息つくと後ろを振り返った。いつから建っているか分からない古い和風の家屋、どうやら商店のようだ。21世紀の、しかも繁華街の真ん中に、こんな時代から取り残されたような建物があること自体が不思議なオーラを発している。初めて通るところではないのに、こんな建物があるのに気付かなかった。車道沿いに立て掛けられたごみ箱が事故にあったのだろうか見事にへしゃげている――。
みなみは引き戸の上にある店の看板に目を遣った。
「三猿堂……、か」
戸と窓の上にある壁に看板、その背後には燕が巣を作っていて、雛が親鳥の帰りを待っていて、さらに家の外壁なのに欄間がある。底には看板の由来なのか分からないが、三匹の猿が彫られている。
「何の、お店なんだろう」
看板だけでは何の店かわからず、みなみは思わず窓の向こうを覗いてみた。店の中に目が入ったと同時にカウンターにいる店主らしき人物とガラス越しに目が合い、気付けば思わず店のなかに入っていた。普段なら人の顔で気持ちが分かるから、冷やかしと分かってて知らない店に入ることなどないのに、なぜだか足が吸い寄せられたようだった。
「いらっしゃいませ」
柔らかい感じの口調で店主が声を掛けてきた。年齢は60を過ぎたくらいだろうかほとんど白髪で口ひげを生やした紳士的な男だ。長く会っていない親戚の伯父さんにちょっと似ている。
店にはいろんな小物が並べられている。古いということを除けばどれもキレイに清掃が行き届いている。ただ、陳列の種類は指輪やピアスといった装飾品から、洗剤やスポンジといった日用雑貨まで置いてあり、とにかく雑多だ。みなみは自分が小さかったころ、離島に住むおじいちゃんの家に行った時に連れて行ってもらった商店のことを思い出した。あそこでは商店が一つしかないからそんな商売が成り立つだろうけど、通りを挟んでコンビニがあるような町中でこんなタイプの店が残っていることに不思議な感じがした。
ただ、これといって欲しいものは、ない――。
「お姉さん、眼鏡、いりませんか?」
「眼鏡、ですか」
みなみは驚いて店主の目を見た。みなみはコンタクトを入れているが裸眼の容姿になぜ眼鏡を勧める店主の意図が分からなかった。
「あなたに良いものが、ありますよ」
店主はこちらの選択など聞いていない様子で話を進め、カウンターに薄くて黒いフレームの眼鏡を置いて見せた。
みなみはつられるようにその眼鏡に注目した。ただ、みなみはこの店に吸い込まれた時と同じような感覚でその勧めをなぜか無視することができなかった。よく見ると、嫌いな形ではない。
「この眼鏡は、掛けると心の中が見えなくなります」
店主はみなみの瞳を射抜くように真顔で答えた。
「またまた、そんなウソみたいなものが……」
みなみは愛想笑いしつつ心の中でそうつぶやいた。眼鏡は見えないものを見えるように補助するものだ。なのに見えない眼鏡って――。みなみは心の中でちょっと呆れてたが、ここは顔には出さずに店主の顔を見ると、
「えっ、ホントに?」
と、思わず驚いて口に出てしまった。
見えないのだ、彼の顔色が――。
ということは彼の言うことにウソは無いということなのか?
「もちろんですとも」
もう一度店主の顔を覗き込むように見るも、彼の表情に曇りはなくむしろ「これは本当です」と言っているように見える。となるとこれは私のために用意された眼鏡ではないかと思えたほどに、みなみはこれが急に欲しくなった。
「買います、おいくらですか?」
みなみは財布の中を覗いた。これから使うお金を計算しても、払えるお金は3000円ほどしかない。
「3000円で、いいですよ」
「えっ?」
みなみは店主の語尾が耳に留まった。この人もまた私と同じように人の考えていることが「見える」のだろうか。
時計を見ると約束の時間が近づいてる。みなみは言われるがままに財布から3000円を出してその眼鏡を手にして足早に店を出た。さっきのにわか雨はいつのまにか上がっていた。
* * *
それからみなみは店に入る前にトイレに入り、早速眼鏡を掛けてみた。
「うん、なかなか似合ってんじゃん」
鏡に映るちょっと賢そうな自分を見て少し得意気になった。これで本当に人の顔色が見えなくなるのだろうか。衝動買い、しかも言い値で買ったおもちゃの延長に半信半疑ではあったが、思った以上に違和感なく似合っているのでこのまま合コンに行くことに決めた。この眼鏡が本当に店主の言うように
「心の中が見えなくなる」
のであれば、相手に対して過剰に気を使いすぎるコンプレックスは無くなる。みなみは、とにかくこの眼鏡は効果があるものだと自分の中で信じることにした。