三部作『三猿堂』
合コンが終わるまでにみなみは完全に出来上がっていた。
帰りの電車に乗った史佳と智樹は千鳥足のみなみを彼女の最寄り駅に介抱しておろしてベンチに座らせると、いつの間にか寝息を立てている。
「あと、よろしくね!」
と電車の中から元気よく言う史佳に対して智樹は
「それってお前、薄情じゃね?」
とも言えず、電車の扉が閉まると電車は二人だけを残して逃げるように去っていった。
夜も遅くなると駅に下りる者は足早に帰って行く。みんな帰るところがあって、明日のことを考えていたりするのだろう。
一人、また一人と降車した客はいなくなり、ホームに残るのは智樹とみなみだけになった。時間も遅いので、次の電車が来るのにまだまだ時間がある。
「こんなはずじゃあなかったのになあ……」
と言いながらも目の前で眠っているみなみが心配で放っておくことができず、とりあえずすぐ横にある自販機で水を買った。
誰もいないホーム。次の終電まで時間がある。智樹は様子見でみなみの寝顔をのぞきこんだ。眼鏡を掛けているとこんなに雰囲気が変わるのだろうか、寝顔を見るのは初めてだが、その表情は今までのそれよりやさしく、智樹の中に今までなかったある感情が芽生えた。
智樹はみなみの眼鏡に触れようと手を伸ばした瞬間、彼女の目が開いた。
「――あれ?ここは?」
「大丈夫かい?みなみちゃん」
智樹はみなみの表情を見て慌てて手を引っ込め少し後ろに下がった。
「急に寝てしまうから、心配したよ。はい、水」
「あ、ありがとうございます……」
智樹がペットボトルを差し出すとみなみは手を伸ばして受け取った。ここまで来た記憶が途切れ途切れになっていたみなみは周囲を見回し情報を取り込んでいる。
「史佳は?」
みなみは水を飲みながら史佳の姿を探すが、駅は電車が出た後でホームには誰もいない。
「先に、帰ったよ」
「そう……。ってことは……?」
みなみはベンチから立ち上がって智樹にお辞儀をした。酔っていてもしっかり機転が働いているその仕草を見て智樹は静かに笑った
「あれ……?」
みなみは突然考える仕草を見せた。
「あ、そうか」
眼鏡の縁に手を触れるみなみ。目はじっと智樹を見ている。
「それよりみなみちゃん、一人で帰れる?」
「はい、大丈夫です。うち、そこですから――」
といってホームの向こうを指差した。ここから見えるところに彼女の部屋がある。
「あの……、センパイ!」
「ん、何?」
みなみの声を聞いて、智樹はニコッと笑った。それと同時に帰ってきた方向から電車の光が近付いて来た。終電だ。
「じゃあ、俺これ乗って帰るな」
電車のドアが開いた。終電だけに、降りてくる人はまばらだ。智樹はサッと乗り込み振り返ってみなみの顔を見ると、さっきまでの酔いの表情が消えて真剣な眼差しで、何かを言いたそげに自分を見ている。
「私と、私と付き合って、くれませんか?」
この時、一瞬だけ時間が止まった――。
自分も酔っていたが、その一瞬で今までの酔いが完全に吹き飛び、今日一日の出来事が頭の中で高速回転を始めた。
発車しまーす、ご注意下さい
告白されるのは嫌じゃない。しかし智樹には本当は好きな人がいる。だけど内気な性格のみなみが口から心臓が出るような思いで告げたのは、彼女の目を見ればわかる。それも痛いくらいに――。
智樹は考えた。選択肢は二つ。そして考える時間はほんの僅かだ。そして自分の意思を越えた何かが智樹の唇を動かしたのだ。
「――いいよ」
プシュー
「えっ?」
みなみの驚いた声を聞き終わらないうちに終電の扉が閉まった。智樹は離れ行く駅のホームを目で追いかけるが、みなみはホームに立ったままで、その姿はだんだん遠ざかりやがて見えなくなった――。
* * *
「ああ、言っちまった……」
終電は闇の中を何もなかったかのように進み行く。智樹は唇に手を当てた。言ったことを後悔してはいないが、「いいよ」と口に出たことが不思議だった。
「ということは……」
ポケットから今日買ったリップクリームを取り出した。この効果が本当ならば、口に出たあのひとことは余計なことではないということか。
「まあ、言ってしまったことだし……」
智樹は扉の窓に映る自分に問い掛ける。今日のみなみは確かに違っていた。史佳に言われて勝負に出たのか?そうかもしれないが、そういうことはどうでもよかった。
「とにかく、付き合ってみるかぁ」
本心はそうではない。やっぱり史佳のことは捨てきれない。しかし、付き合ってみたらこの先気持ちが変わるかも知れない。それよりも今まで見られなかったみなみの違うところをもう少しだけ見てみたいという気になっていた――。