アキちゃんまとめ
わたしが落ち着くまで
春の若々しい緑の香りに、時折雨の装いが混じる。県内の薔薇園が美しく彩られる季節。梅雨も眼前に迫る、初夏の陽気に汗が滲む日のことだった。
アキは真波山岳の誕生パーティーの会場へ足を踏み入れる。マフィア、といっても表向きは羽振りの良い貿易会社だ。首都の一等地に聳え立つ、首も痛くなる高層ビル。パーティーフロアとホテルフロアが入れ違いにエレベーターパネルを占拠している。それの意味するところに心の中で唾を吐きながら、アキはエレベーター前に控えていたコンシェルジュに微笑みを向けた。
点灯したパネルはパーティーフロアのもの。招待状をゆらめかせながら受付をくぐれば、そこは輝きの洪水だ。
アキがこのパーティーに来たのは、アキが真波の婚約者だからだ。表向きは。
しかし裏すらもない、とアキは知っている。真波とアキは両親と周囲が決めた婚約者で、アキにその拒否権は無い。今日も真波山岳を祝いたがる人間の波を押し分けて、たった一人の主役を探さなければならない。ただ、「真波山岳には総北ファミリーの婚約者がいる」ことを、ここの参加者たちに知らしめるためだけに。
母親に選んでもらったオーロラピンクを基調としたローブ・デコルテワンピースは、本来ならば夜の装いだ。太陽がまだ高い位置にあるというのにこの服装はおかしいかもしれない。しかし、周囲を見渡してみても、肌を隠している女などいない。ここに渦巻くのは打算と欺瞞、色欲と駆け引きたちだ。
高いヒールを履いているおかげでどうにか床に擦れることなくドレスの裾が揺れる。今日の主催の衣装が青系統だから、と、アキはなにかにつけて赤やピンクを身につけさせられることが多かった。初めて会ったときも、確かに赤いベロアドレスを着用していたはずだ。
ボーイからシャンパングラスを受け取り、口をつけるふりだけする。アキには多くの人間が行き来する場所では最低限の飲食しかしないように、という坂道の教えが身についている。脂肪の塊たちから誘われるダンスを優雅にかわしながら、アキは小さなコンサートホールほどはあるだろうフロアを歩く。パートナーは、未だに不在のままだ。
不意に、アキの胸中に影が落ちる。
今日の誕生パーティーの招待状は、真波本人から渡されていたわけではない。荒北を介して届けられた招待状は、シンプルな白地に美しい銀色で日時が印刷されていた。
考えがまとまらないまま歩いていたアキは、すれ違いざまに背の高い女と肩をぶつけてしまう。女はアキなど気にも留めずに、本日の御伴に決めた男の腕にしなだれかかっている。
これも彼の妻になるために必要な我慢なのだろうか。アキは惨めな気持ちを押し込めて、巻島がわざわざ着けてくれたパールのネックレスに利き手で触れた。
気持ちを切り替えよう、と視線を周囲に巡らせたアキは、見知った影を見つける。荒北だ。
アキは荒北に声をかけようか迷った。荒北は一人ではなく、見知らぬ女性と話し込んでいるように見えたのだ。アキはぐっと声を飲み込み、シャンパングラスを一気に傾ける。それから今まで居た、フロアの中央から壁の方へと歩き始める。
主役には会えない。仄かな憧れを抱く相手は他の女性と楽しそう。ハリネズミのようにちくちくと尖る気持ちが、自分をも刺し殺してくれたらいいのに。
壁までやってきたところで、背後に気配を感じ、不自然にならない程度に警戒して振り向く。
「……何やってんのォ、こんなトコで」
「やすとも?」
荒北はアキと並んで壁に背を預ける。アキはえっと、と言葉を濁した。まさか婚約者に会えなくて、とは言えなかった。
「フーン」
「やすともは、真波くんの護衛?」
「ッハ! アイツにはンなの必要ねェよ。新しい情報でもねぇかと思って漁りに来ただけェ」
アキは、そうなの、と小さく返す。
同時に、今まで目を背けていたものたちが心の奥から声をかけてくる。寂しさや、虚しさ。憤りや、悔しさ。
婚約者にここまでコケにされて、悲しまないほどの強い心を、普通の少女は持ち合わせていない。
荒北の、仕立ての良いスーツの裾が、ごくごく軽く引っ張られる。
立ち去ろうと体勢を立て直せばすぐに離れてしまいそうな、弱い力だ。
「ごめんネ」
謝るアキの声は微かに上ずっている。
床に視線を落とし、他の人間からは死角になる場所で指先だけで荒北を引き留めている。
「ちょっと。ちょっとだから」
きっと荒北にはもう全部ばれているのだろう。真波に見てもらえるかもしれないと、できる限りのお洒落と背伸びをしてきたことも、彼の顔すら見れずにいることも。
「わたしが落ち着くまで……」
アキの言葉に、荒北は無言を貫く。余計な動作など一つもなく、少女を守る騎士か茨かと思わせる立ち姿で、ただ並んで壁の花になっていた。
荒北さん√のアキちゃんは誕生日が4/21だったけど、この√だとあえて5/28の方が面白いかなと。
真波くんは会場に来ておらず、どっかのアジトでドンパチやってました。自分の誕生日パーティを忘れる男。
2016/05/29