アキちゃんまとめ
メリーゴーランドキッチン
※メランコリーキッチンの鳴アキver.
扉の向こうにはオレンジの香りが残っていた。
「アキ?」
いつもはなかなか呼ばない名前がすんなり口から出てきたのは、きっとこの状態を把握できてないからなのだろう。鳴子は自宅の隅々まで扉という扉を開け放つ。小さい頃のアキはどこにでも隠れたがる少女だったからだ。バスルームも寝室のクローゼットも全て開け放ち、ドアというドアが役目を全く果たせなくなったとしても、鳴子はアキの姿を見付けることができなかった。
バスルームに伝言でも残っていてくれればよかった。けれどもそこにあったのは二人で選んだ、カラーリングの強い髪にも優しい染髪剤たちだけ。当の本人はどこにも居ない。
寝室で服を確かめる。いつも気に入って彼女が着ていたコートが無くなっている。それから一揃えの赤い手袋も。マフラーは置いてあった。まだ寒さが残るというのにこれを置いて行ってしまっては寒空の下で困るのではないか。鳴子の背中にざっと嫌な冷気が流れ込む。
アキが事故に遭ったのは一年近く前のことで、それからこのバリアフリーのマンションに引っ越してくるまでに紆余曲折があった。アキは結婚したばかりの鳴子に向かってもう別れようと何度も泣いたが、鳴子は決してそれを許さなかった。惚れた女が泣いとるんに一人で置いてけっちゅうんか、と幾度も言い聞かせて、背を撫でて、頬をはたかれても離さなかった。
部屋にはいつもアキが使っているお気に入りのバッグも無い。鳴子は焦る気持ちを抑えながら小野田家にも電話を入れるが、いつまでたってもコールばかりで繋がらない。
「クソッタレ!」
口汚く通話を切り、家を飛び出す。アキの足ではすぐさま遠くには行けまい。タクシーなどを使えば別だが、今でも屋外に出る時は車椅子を使っているのだから。鳴子はマンションの使えない管理人の横を走り抜けて、持ち出してきた愛車にまたがる。市街地を走るのはいただけないが、車よりも小回りは利く。まずは小野田家に行って、捜索願はまだ早い、鳴子の実家は遠すぎて何も知らないだろう。悪い方向ばかりを考えてしまう自身を振り切るようにペダルに足を掛けた瞬間だった。一つ向こうの曲がり角に、見知ったタイヤが見えた。風に揺れる髪色のほとんどは帽子に隠されていたけれど、鳴子にはそれが誰だかすぐに分かった。
「アキ!」
鳴子の声に気付いたらしいアキが顔を上げる。なるこくん、とアキの唇が動くよりも早く、最速のスピードで見慣れた車椅子の前まで辿り着いた鳴子は常よりも低くなった相手の両目に向かって、これはどうしたことだと問いかけようとした。
「どこほっつき歩いとった!何も言わんで!一人で!」
「な、鳴子くん」
「電話でもメールでもせえや!心配するに決まっとるやろ!ホンマに寿命縮んだわ!」
「ご、ごめん」
叫びながらずるずるとその場にへたり込む鳴子の横で愛車がコンクリートに向かって倒れた。アキの膝に縋り付くような格好になった鳴子に、アキはもう一度「ゴメン」と謝り、もぞもぞと鞄から一冊の冊子を取り出す。
「本当は言ってから出かけようかと思ったんだけど、でも、違ってたらどうしようって思って……」
ゆっくりと顔を上げた鳴子の眼前にアキから差し出されたものが広がる。
「……困る?」
ぼしてちょう。鳴子の唇が小さな冊子の題字をなぞった。
それから何度もアキの、コートに隠れたうすっぺらい腹と顔を見比べて、へ、と気の抜けたような声を上げる。
「ホンマに?」
「……うん」
「赤ちゃん、おるんか?」
「……そうだヨ」
鳴子くんの赤ちゃんだよ。
アキがそう言うと、鳴子は次の瞬間、勢いよく立ち上がると同時にアキの身体を抱え上げた。
「よっしゃーー!やったでー!!」
「キャァアッ!?」
「うぉぉおおおーーー!!」
その小柄な体の何処にそんな力があるのかと問いたくなるくらいの力強さで鳴子はアキの身体を抱えながらその場でぐるぐると回り続ける。アキは先ほどまで自分が抱えていた不安が鳴子の一挙一動と共に掻き消されていくのが分かった。事故に遭って、それから鳴子が自分を第一に考えていてくれていたことは知っていた。だからこそ負担を増やしたくなどなかった。妊娠していると知った時は純粋に嬉しかったけれど、鳴子の重みになりやしないかと不安だった。だからこそ、こっそりと、鳴子が仕事で家を空ける時間帯を狙って病院に行ったのだ。
けれどもアキを抱える両腕は温かかった。寒空の下で、そこだけ切り取られて守られている特別な温室のように。
アキはそこでようやく声を上げて笑う。鳴子の首に腕を回して、滲んだ涙を誤魔化すように顔を埋めた肩はやはり温かかった。
鳴子の肩口からは、嗅ぎ慣れた幸せの香りがした。
(2015/03/16)