アキちゃんまとめ
ぼくの小鳥はよく笑う-2
アキは狼というものを知らない。というよりも、アキの知識は空の生き物か、植物と共存していく生き物がほとんどであり、それ以外はとんと見知らぬものたちばかりであった。これには両親や姉が、どうせ空の世界で生きていくのだからと若干の平和呆けした意識を持っていたからでもあり、昨今の地上でのつばぜり合いを知らぬからでもあった。たまに地上の方からやってくる両親の古くからの友人だという山の神も、アキの世間知らずを矯正しようとすることはなかった。
目の前の相手に見覚えがないアキは、かくり、と首を傾げてみる。するとアキの捕まれた手はおろか、体までも揺れるくらいに相手が驚いた。ぴん、と逆立った三角の耳が雨ニモマケズ、天へと伸びている。
狼は先ほどのように、チ、と舌打ちをしてからアキの体を肩に抱える。先ほどまで水に浸っていた体と翼は見た目よりも随分と重量があったはずだが、意にも介さぬ様子でずんずんと足を進めていく。アキはぼんやりとした中で、ゆらゆらと揺れる相手の尻尾を見つめていた。
雨はまだ降り続いていた。
「ーー邪魔すんヨォ」
「おや、お久しぶりです」
アキが数十分ほど揺られた後、狼はぺたりぺたりと水を滴らせながら石造りの床を歩いていた。冷えた体が微かに震えていたが、狼はそれに気付いているのかいないのか、ただひたすらに目的地を目指していただけであった。
アキは狼の背中にずるりと両腕を垂らしたまま、夢とも現とも判明しない意識を保っている。ただの雨で、少し翼が塗れたくらいでこんなことになったことは今まで経験したことがなかった。禊ぎをする泉で水浴びをしていても、ここまで翼が重くなることは無かったはずだ。アキはぼんやりとしたまま、不意に体を放り投げられる。荒北さん! と焦ったような女性の声が響く。もちろんアキにはその名前も、女性の声にも聞き覚えはなかった。
空中に投げ出された筈のアキの体はすぐに柔らかい何かに包まれる。それがしっかりとした女性の腕であると気付いたのは、体中を覆う柔らかな布からもぞりと鼻先を出してからだった。
アキの体を支える腕は女性のものではあったが、時折抱きしめてくれる母親のものよりも随分とがっしりとしていた。アキの母親はともすれば不自然なくらい細く、白い腕をしていたからだ。翼ごと抱き上げられる姿勢になったアキはまじまじとその顔を眺めてしまうが、同じように相手も目を丸くしてアキを見つめている。驚いている、とアキは感じる。だが、女性が何に驚いているのかは皆目検討がつかない。
「その鳥が入り込んでた領土は黒田の管轄だ」
狼の言葉に女性がはっと顔を上げる。その視線は強く、意思の強靱さを如実に表現していた。だが、そこに不安と焦燥が混じる。
「そんな! ユキが警備を手薄にすることなどありません!」
「ンなこたァどーでもイイんだよ! オレがソイツを連れてきたのは、どっかで野垂れ死なれた挙げ句に空の奴らからこっちの責任にされる可能性があったからだ」
狼は元々細い瞳をさらに細めながら女性に対して高圧的に言い放った。アキはぱち、ぱち、と眠らないように何度も瞬きを繰り返すが、あらがうことのできない眠気に瞼を浸食されていく。もしもアキにもう少し知識があったならば、それは地上の、とりわけ地に足を着けた民の居る空気に自身が慣れていないからだったと気付くことが出来ただろう。だがアキはまどろむような気配を払拭することもできず、小さくくしゃみをすると、それだけで体力を使ったかのようにかくりと意識を手放してしまった。
女性は焦ったように腕の中のアキを揺り動かすが、しばらくしてから首を振りながらため息を吐いた。
その女性と、腕の中の小鳥を交互に見やり、荒北と呼ばれた狼は心中でこれまたため息を吐いた。
本当ならば、見捨てても良かったのだ。現国王である福富と、空の民たち、総北の間の火種になるようなものはさっさと摘んでおかなければならない。だが、このアキの場合は完全なる本人の不注意だ。こうして拾うようにして、箱根領土の中枢に近い、石造りの神殿内にまで連れてくる必要はなかった。
だが、荒北はまだ幼くあどけない少女の瞳に、唇に、髪の毛に、いつかの女を思い出していた。古い友人である東堂が執着している、大樹の上に巣を作った生き物。玉虫色の髪をなびかせて竜の側で微笑んだ女。淡い感情に気付いた瞬間、敗れさった日。思い出してしまえば、目の前の小さな存在を放っておける筈など無かった。
「……とにかく、ソイツがどのあたりのヤツなのか調べとけ、泉田」
「は、はい」
言うが早いか、荒北はくるりと背を向け歩きだした。まずは、黒田を呼びだして最近の警備状況について尋問しなければならないと思ったからだ。