アキちゃんまとめ
それならわたしとけっこんしよう-9
昔から私はパパとママと共にあった。
パパがテレビのインタビューで映し出されると、私は大はしゃぎでテレビの真ん前に座り込んで食い入るように見つめていた。ママもお姉ちゃんもそんな私をかわいいと言っていつもにこにことしていた、と思う。なにせ、ママはあまり笑顔が得意じゃない。でもママは時々、絵画に描かれる女神さまみたいにきれいに笑う。パパが生まれて初めて出たフランスのレースで、そこでも誰かが見たらしい。それを知ったのはパパが載っている雑誌を一から順に読んでいた時だ。『祝福の緑色を纏ったニケ』と、ママのことを書いていた記事があったからだ。
私はその記事を思い出しながら、濡れた髪の毛をくるりと指に巻き付ける。ママよりも明るく、水色に近くなった髪色。明るい緑色に空色を混ぜたのは、私はママと一緒じゃないっていう意思表示だった。とにかくきれいにして!と叫んだ美容室の一角で、べったりと塗られたヘアカラー剤は、思ったよりも美しく発色した。
パパもママもお姉ちゃんも、私の髪の毛はきれいだよって言った。やすともも、言った。きれいだヨ、とおざなりに。でも確かに言ってくれた。だから私はずっと、今まで、この髪色で生きていたのだ。
「……」
ざぶん、とお湯に口元までつかる。弱気な独り言はこれでもう言えない。私は部屋の内風呂から夜空を見上げる。少し涼しく、寂しいと思うのは私が今、一人だからだろうか。
*
次の日、ロードレーサーの娘だからということで見学を許された私はほぼ一日、追走車に乗って過ごした。
一緒に乗り込んだ福チャンはところどころでレースの主催者さんと話をしていたけれど、私はあえてそれを気にしないようにと自分に言い聞かせた。私がパパの娘だからと同行を許してくれた主催者さんには申し訳ないけれど、私はパパの娘だと扱われたくはなかった。昔から、フィルターごしに見られることはあったけれど、ここまでささくれた気持ちになったことはない。どうしてだろう、と私は私に問いかける。
その答えが出ないまま、レースは感動のフィナーレを終えてしまった。
午前中にジュニアレースも行われていたためプロのロードレーサーへの指導志願は後を絶たない。福チャンはちょっと困ったような空気をまとっていたけれど、私は関係者テントの中でパイプ椅子へと優雅に腰掛けていた。
福チャン、と私は遠巻きに眺めながら名前を呼んでみる。心の中だけで。やすともと呼んだ回数なんてもう数え切れないくらいで、それと比べてしまうと福チャンの名前を呼んだ回数なんてたかがしれている気がした。でも私の呼びかけに応える割合は、どちらの方が上だったんだろう。
私は主催者さんにできるだけ丁寧にお礼を言って、まだ到底解放されることはないだろう福チャンを置いてホテルに戻ることにした。私が居なくなったことに、福チャンは気付くだろうか。やすともは私が居なくなってもきっと気付かないけれど。
タクシーでホテルに戻って、ぼんやりとホテルの庭を歩く。ここには庭園があって、奥には教会もあるのだと入り口に書いてあった。心持ち静かに教会へ近づくと、そこでは一組の男女が向かい合っていた。私は教会の入り口でかちりと固まってしまう。まさか本当に結婚式の最中だったなんて、と逃げ出したくなる。花嫁さんが私に気付いて、顔を向けてくる。ごめんなさい、と震える声をどうにか絞り出す。
「あの、邪魔するつもり、なくて、ごめんなさい」
私が相当に怯えていたからだろうか。花嫁さんと花婿さんが微笑んで近付いてくる。
「大丈夫よ、こちらこそごめんなさい。明日の予行練習をしてたのよ」
「よこう、れんしゅう」
「当日になって絨毯に躓いたりしちゃいそうだからって」
柔らかく笑う新郎さんは、確かにウェディング用ではないカジュアルスーツを着ていた。花嫁さんも、ウェディング用かと思ってしまうくらい真っ白い出で立ちだったけれど、それはワンピースだった。
「えと、お、おめでとうございます」
わざわざ近付いてきてくれた二人に私は急いで頭を下げた。あらあらと新婦さんがおかしそうに笑って、それから「内緒にしててね」と続けた。
私はこくこくと頷いた。それから二人は手を振りながらホテルの方へ戻っていく。私はきょろりと周囲を見回して、教会の中へとおそるおそる足を踏み入れる。天井がガラスになっているらしく、そこからさんさんと太陽の光が降り注いでいた。ビニールハウスみたいに熱がこもらないのはやっぱり標高が高く、常の気温が低いからなんだろう。
しばらくまじまじと内装を眺めていた私の携帯電話が鳴る。着信は、福チャンからだった。私は通話ボタンを押しながら、残念に思っていない自分に気付いた。今までの私ならきっと、やすともからの電話じゃない、とふてくされていただろう。でも、今の私はやすともからの電話じゃなくても、寂しいとは思わなかった。
「もしもし」
『アキか?』
「ウン」
『もうホテルなのか?無事に着いたか?』
タクシーで送ってもらったんだから、無事に決まってるでショ、と私はわざとすねたように言ってみる。そうか、と福チャンは返してくる。
「ねぇ福チャンは、晩ご飯、どうするの」
『……ホテルのレストランで食べる予定だが』
このホテルでは自室で食べるか、ホテルのレストランで食べるかが選べるようになっている。私は昨日は部屋にこもってご飯を食べた。確かにおいしかったけど、でも、一人きりなのはさみしかった。
「一緒に食べてもイイ?」
福チャンがびっくりしたんだろうなっていう沈黙が流れる。私はステンドグラスを見上げながら言葉を重ねた。
私は先日読んだ小鳥の本の台詞を思い出しながら言う。
「わたし、びょうきなの。ごはんをたべさせてくれないと、なおらないわ」
胸に空いた穴を、夏の空気が通っていく。じとりとした湿気、立ち上る海の香り、突き抜けるような青色、夕立の前触れみたいな背筋に走る電流。
これはびょうきだ。失恋という名のびょうき。とびきりの治療薬が必要だ。