アキちゃんまとめ
大福肌の怪獣
「やぁああああ!!!」
普段は大人しく、母親の後ろに隠れて出てこないアキが、全力で泣き叫んでいる。慌てる巻島を横目に、荒北はどうしてこうなったのかと眉間を押さえた。
始まりは、巻島がそろそろ仕事へ本格的な復帰をしようかと考えている、という旨を伝えられた時だったように思う。荒北は小野田家から車で五分、自転車で十五分という超短距離に住んでおり、坂道や巻島、そして彼らの母親の都合がつかないときなど、ごくごくまれに夫婦の娘を預かることがあった。
小野田家の長女は年に似合わぬ聡明さで、大人の手にあまるようなことは一切しなかった。どうにも東堂とは相性が悪く、悪戯をしては追いかけ回されていたようだが、荒北にとっては扱いやすい少女だった。そして続く次女であるアキも、大きなワガママを言わない、大人しい存在だった。人見知りが強く、初対面の相手からは距離をとって隠れてしまうことも多々あったが、巻島の躾によって短い挨拶はできる。ふんわりとしたほっぺたと桃色の頬、父親親譲りの丸い瞳と母親譲りの長い睫毛。皆、すぐに彼女をかわいがった。
そんな蝶よ花よと育てられたアキは齢二歳にして立派な家族大好き少女となった。海外で過ごす時間の方が多い小野田のことも、いつもテレビの前で応援しているのだという。
そしてアキが二歳になる今年、保育園デビューをさせようということになったのは、冒頭の通りである。
小野田は遠征にて家を空けており、巻島が日中に家を空けるとなればアキはどこかに預けなければならない。親類を頼るにも、向こうには向こうの生活がある。長女がなんなく幼稚園デビューを果たしたこともあり、おそらくアキも大丈夫だと判断したのだろう。
今日は、アキの記念すべき初登園日のはずだった。だが、保育園グッズを全て運びこまれ、巻島の足にしがみついていたアキに、巻島が声をかけた。
「ほら、アキ、今日はここでおるすばんショ」
「おるすばん……?」
「ママは今日、おしごと行ってくるからな」
巻島は今までも仕事で日中に家をあけることがあった。アキもそれを思い出し、「やすともと?」と荒北を見上げながら問いかけたのだろう。
「イヤ、やすともは荷物運びにきてくれただけッショ。荒北ァ、あんがとな」
「車出すついでだったし、別にいいヨォ」
「いっしょじゃない……?」
「ママとやすともじゃなくて、今日はお姉ちゃんたちが一緒に遊んでくれるからな。アキとおんなじくらいの女の子たちもたくさん居るッショ」
そうして巻島が改めて保育士たちに「よろしくお願いします」とぺこりと頭を下げる。保育士たちは巻島のどぎつい髪色に物怖じもせず、「お姉ちゃんだなんて、ありがとねー」「アキちゃん、こんにちは〜」などとにこやかに応じた。
巻島と保育士たちを何度も交互に見やるアキは、まんまるの目を大きく見開いて、ふるふると震えはじめる。巻島はアキを一度だっこしてやり、保育士たちに受け渡そうとしたのだが、そこでアキが火をつけたように泣き始めてしまった。
「やーーー!!」
「うぉっ!? ど、どうしたショ?」
「まま! ままー!」
「アキ!」
ひしっと巻島の首元に掴まり、わんわんと泣き声をあげる。
「大丈夫ショ、ばーばともやすともともお留守番したことあるショ?」
「ちーがーぁーー!!」
巻島と保育士でどうにかアキを引き剥がそうとするのだが、巻島の着ている服を握りしめ、顔を埋めているアキに皆が手こずってしまう。ママじゃない!やすともじゃない!と耳まで真っ赤にして泣き叫ぶアキは、みるみるうちに巻島の服を濡らしていく。
急ぎ、保育園のお昼寝セットから出したバスタオルで顔を拭ってやるが、その感触で更に自宅を思い出してしまったらしい。アキは嫌だ嫌だとこれまでに見たことも無い声量でひたすらに主張し続ける。登園をぐずる子は数多くあれども、ここまで嫌がる子は珍しいだろう。保育士たちも困惑気味だ。
大人たちがおろおろとする中で、アキは何度もしゃくりあげ、バスタオルまで握りしめながら必死に主張を続ける。そりゃそうだ、と荒北は意外にもすんなりと納得する。お世辞にもアキは社交的な部類ではないし、年に数回顔を合わせるだけの福富や新開は未だに初めの数時間は近くに寄らせてもらえない。そんな警戒心と寂しがりの塊のような、生まれてから二年しかこの世を経験してない存在が一人で知らないところに放り出されて、平気な筈は無いのだ。
「アノー……」
巻島の出勤時間も刻一刻と迫る中、荒北は口火を切る。柄にもない申し出ではあるのだが、アキをバスタオルでぐるぐるに包んでから抱っこを代わった。
「アキちゃん」
「やだ!やだもん!やだぁーー!!」
無理矢理置いて行かれると思ったのか、じたばたともがいて小さな手が巻島を探す。巻島も自分の娘にこうまで泣かれて平気な筈もなく、その顔を不安いっぱいに染めていた。荒北は巻島の表情を盗み見てから、腕の中のアキに話しかける。
「アキちゃん」
「やだ! ママ、だっこ! ねーえぇー!だっこー!!」
小さな怪獣が、荒北の声に反応して唸り、叫ぶ。ふわふわと踊る黒髪の奥に、真っ赤に染まった形の良い耳が見える。小野田と巻島の愛らしいところだけを抜き取ったと評判の彼女は、将来きっと美人になるだろう。必死にもがく姿からは想像もできないが、荒北はそう確信している。誰にも言ったことはないが。
「今日はオレと留守番しよっかァ」
「うぅ?ーー! うー……?」
抱き直し、顔を覗きこんで言ってやれば、だんだんとアキの動きが収まってくる。ひっく、ひっくとしゃっくりを残しながら、涙と鼻水でぐしゃぐしゃの顔で荒北を見返してきた。
「いいのかァ? そりゃ、こっちは助かるけど……」
「こんなんじゃ預けらんネェだろ。次までに言い聞かせとけヨ」
話の展開についていけないアキは、きょとんとした顔で荒北を見上げている。荒北はバスタオルでぐいぐいとその顔を拭い、車へと戻っていく。チャイルドシートつきの後部座席に乗せられたアキは、顔の赤みが消えないままだ。
保育士たちに頭を下げ、巻島を駅まで送って自宅へ戻る。このチャイルドシート自体は小野田家のものなので、夕方に本体ごと返しに行けばいい。
荒北は車を駐車させてから、バックミラー越しに後部座席を見る。アキは泣き疲れたためか、かくりかくりと船を漕いでおり、時折むにゃむにゃと口を動かしていた。
小野田夫妻の新居が今の自分の住まいに近くなる、と知った当初、荒北は小野田家からは距離を置こうと思っていた。距離的にも、精神的にも。しかしずるずると転勤のタイミングを逃し、いつの間にか二人の娘までこうして預かることさえ増えてきてしまった。
すやすやと眠る幼子の顔を見れば見るほど、荒北の足はこの地から動かなくなる。かつて自分が恋した人間の娘。傍で聞けば、異常な執着だ。